「はじめてのやのあきこ」にある二種類の円熟味

はじめてのやのあきこ
はじめてのやのあきこ

このアルバムのゲストである小田和正井上陽水忌野清志郎とホストの矢野顕子は、いずれも長いキャリアを持つ天才肌の人だが、みんなデビューした時にはもう既に出来上がっていた人たちだ。

だから、新しいアルバムが届いても本当の意味での驚きがない。本質的には同じ一定の才能が、常にそこにある。最上級だがいつもいつも同じ才能を見ることになる。

もちろん、いい作品悪い作品はそれぞれあるし、全体として後になるほど良い作品が増えていると思う。しかし、それはどちらかと言ったらこの世的な事情によるものと思われる。つまり、彼らの人生の歩みに見えて来る物語は、わがままな天才がだんだんとわがままのまま音を作れるようになっていく過程である。コンスタントに売上が立つことで音楽産業が彼らの商品価値を認識していき、彼らがそれに比例した権力を獲得して、好きなスタジオで好きなミュージシャンを呼んで好きなだけ時間をかけて音を作れるようになったという、純粋に経済的なプロセスである。

彼らの才能の輝きは、最初からずっと一定だ。物語は、その輝きの中にはなくて、その輝きとリスナーの間の障害物にある。だんだんと、障害物が取り去られて、初めらかそこにあった輝きが、誰にでも明解に見えるようになってくる、そういう形而下的な物語だ。

しかしそれでは、ミュージシャンである彼らが、この世で長い年月を過ごす意味はどこにあるのだろう。何も変わらないなら、作るアルバムは1枚だけでよいのではないか?そう考えたことがある。

私がずっと悩んでいたその謎に、このゲスト三人と矢野顕子の3つのセッションによって、ひとつの回答が与えられた。

ダイヤモンドのように完璧であり侵食しがたい天才であった彼らが、少し柔くなっているような気がする。いい感じに力が抜けて、それでいて力強い声だ。ハーモニーは2声であるとは信じられないくらい、ぶ厚く美しい。そのハーモニーにつつまれながら、私は、彼らの歌を聞きながら過ごしてきた自分の人生を回顧した。ダイヤモンドとダイヤモンドが溶けあうそれらのセッションは、あまりにも素晴しくて臨死体験とはこういうことなのかと思った。

特に、忌野清志郎のセッションは、彼のベストパフォーマンスではないかと思う。非常にソウルフルだ。

普通の人のようには円熟しない彼らも、知らないうちに時間の中で円熟しているのだなあ、と思った。ダイアモンドは劣化しない。劣化も進化もしないけど、時間の中で円熟して時に素晴しいデュオを見せる。ダイアモンドは鉱物のように見えるが実は生きている。そして、そこにこの世の時間の意味がある。そういうことを教えてくれるアルバムだ。

槇原敬之YUKI上原ひろみという若いミュージシャンを呼んだセッションでは、矢野顕子はもっと普通の意味での円熟を見せて、ベテランミュージシャンらしく、自然体で若いゲストからそれぞれの魅力いっぱいのパフォーマンスを引き出していた。こういうことも、昔の矢野顕子にはできなかっただろうなあ。

二種類の全然質の違うチョコレートを混ぜ合わせたチョコレートケーキのように、このアルバムには矢野顕子の二種類の円熟味が溶けあっている。

そして矢野顕子自身は、やはりいつものように満開である。