「ギークの暴走」としての「本物のGoogle八分」

Google八分」という言葉は、私が前のブログで、「「Google八分の刑」という難問」というエントリーを書いた時に思いついた言葉ですが、実は、私が思った意味とはちょっと違う意味で流通してしまいました。

ひとことで言えば、私が考えていたのは「ギークの暴走」だったのですが、実際には、「スーツの暴走」が先に現実化して、「Google八分」という言葉は後者を指すものとして定着してしまったようです。

「スーツの暴走」とは、資本関係や営業面での考慮によって特定のURLが排除されて、言論の場としてのインターネットが歪められてしまうことです。これはこれで問題ですが、「スーツの暴走」に留まっているうちは、従来の「大企業の横暴」「大資本対市民」と言った捉え方で考えることができます。つまり、構造的には昔から繰り返されてきた問題が、単にインターネットという場に場所を移しているだけのことです。

しかし、私がもともと考えていたのは「ギークの暴走」であり、その意味での「Google八分」は次の言葉で定義できます。

Google八分とはGoogle八分のページへリンクしているページをGoogle八分にすること


たけくまメモさんの【文春】Google(暗黒?)特集に次のような話があります。

でも基本的に俺は、楽観的なんです。たとえば「Google八分」にしても、商売としてこれを考えると確かに問題だけども、文化として考えたときには、「Googleに排除されたこと」がある種の勲章になることだってあるわけで。アングラサイトとして「Google八分リンク集」なんてのがどうせできると思うわけですよ。そこから別種の文化が生まれることだってありうるわけで。

これは「スーツの暴走」としての現在行なわれているGoogle八分については、全くその通りだと思います。しかし、もし、私が最初に考えた通りの「ギークの暴走」的Google八分が行なわれたら、「Google八分リンク集」は自動的にGoogle八分になります。そして、そこにリンクしているアングラ系のサイトも軒並みGoogle八分になります。だから、「別種の文化」に関わるリスクはすごく大きなものになります。

もちろん、これをストレートにやったら、アングラサイトに間接的にリンクしている普通のブログまでGoogle八分になって、結局、世界中の全てのWebページはどこかでそこにつながっているので、全てのページがGoogle八分になってしまいますから、意味がありません。もう少し穏かに、エレガントにやるでしょう。つまり、Google八分のサイトにリンクしていると、ページランクが微妙に下がるんです。その影響は、直接リンクしている所より間接的にリンクしている方が少なくなります。

つまり、最初の定義を少しだけ正確にすると

Google八分とはGoogle八分のページへリンクしているページを微妙にGoogle八分にすること

「微妙に」という所が、難しい数学の計算になるのですが、これは、ページランクの逆なのです。

ページランクの高いページからリンクされているページのページランクは高い

だから、Googleには、既にこの「本物のGoogle八分」を実施する技術を持っているのです。あとは、この影響を簡単に見えなくする方法を考えればいい。「見えなくする」という方法は具体的には考えていませんが、ページランクSEO対策で、この基本的な定義からさまざまな調整が入っているはずなので、そういう調整の為のアルゴリズムの中から、適当なものを応用すれば簡単にできるのではないかと思います。あるいは、ページランクダウンを確率的に実施するとか、偽装Googleダンスを混ぜて行なうとか。

このような「ギークの暴走」としてのGoogle八分の影響力は、「スーツの暴走」の比ではありません。

たとえば、競合する二つのサービスがあって、その使い勝手や機能やユーザの対応力が同等だったとします。そして、ブロガーの評価もマスコミや玄人筋の評価もほぼ同じで、甲乙つけがたいものだったと。

しかし、誰にもよくわからない理由で、微妙に差がついて、その差が少しづつ、しかし確実に広がって行くわけです。勝負が見えてきたら、その理由を得々と説明する人がたくさん現れて、後付けで見事な仮説で解き明かしたりします。

でも実は、両社の違いは、単に「Google八分サイトへのリンク数」の違いだった。

あるいは、人気ブロガーにも人気を保てる人とそうでない人がいる。その違いも、説明しようとすればいくらでも説明できる。でも本当の違いは、「Google八分サイトへのリンクしているブログへリンクしている数」であり、それが多い人はだんだんアクセスを減らしていく。

もちろん、自分でクローラーを作って、大規模な調査を行えば、大域的な不正があることはわかるでしょう。しかし、それを調査して訴えているページは、いつのまにか目にしなくなって、あなたはたまに思い出すけど「なんかそういうことを言ってた人がいたけど、最近見ないなあ、やっぱり思いこみか勘違いだったのかなあ」なんて思って忘れてしまうわけです。

Google八分のページへリンクするとWebから排除される」という都市伝説が定期的に話題になるけど、いつも真偽不明のままウヤムヤになる。なんだかわからないけど、あまり触れない方がいい話題であることは間違いないみたい、くらいには漠然とみんなが考えるけど、表だってそれを言う人はいない。

そして、それは、段々と都市伝説でなく確定した事実となっていくわけですが、その時には、Webの中でそれを言うリスクを冒せないほど、誰もがグーグルに依存しているというわけです。

Googleは「Evilなことはしない」と約束しているので、これはたぶん単なる妄想です。でも、ここに書いたことがEvilであるかどうか決めるのは、Googleの黄金株を持っている創業者二人なのです。

これは、以前私が創発的権力の汚染問題と純化問題として問題にしたこととほぼ一致しています。つまり、「スーツの暴走」とは創発的権力の「汚染問題」であり、「ギークの暴走」とは創発的権力の「純化問題」です。

天安門事件が出てこないグーグルは汚染されていると思います。では、それを「純化」すればいいのか。ギークがスーツを排除したグーグルが正しいグーグル、望ましいグーグルと言えるのか?「汚染」のみを問題にしたら、純粋にアルゴリズムによって天安門事件を排除するグーグルに変化していくことはないのか?

だから、私は、「スーツの暴走」「汚染問題」を考える時は、常に、「ギークの暴走」「純化問題」についても同時に視野に入れるべきではないかと思います。