表現の自由とアーキテクチャの「過去」と「未来」

表現の自由」について、レッシグの言う「アーキテクチャ」を考慮した上で再考すべき時期が来ていると思う。

この問題は、過去につながる部分と未来につながる部分がある。

過去につながる部分とは、Sankei Web 国際 イラン大使、ホロコーストの存在に疑問呈すみたいな話。この話の背景としては、eirene - ムハンマドの漫画 まとめがわかりやすい。


一つは、イスラム報道や中東問題(特に、パレスチナ紛争)における欧米メディアの「二重基準」が改めて問われた事件だった。パレスチナ紛争に関しては、欧米メディアの基本的論調は、pro Israel と決まっている。欧米人がかつてユダヤ人を差別、迫害し、その結果として現代イスラエルが建国されたという歴史事情があり、欧米メディアは中東問題を公正に報道し、論じる視点に立つことが極めて難しい(つまり、イスラエル批判を行うと、それが正当なものであるか否かに関わらず、反ユダヤ主義という批判の声があがることになる)。


いくつかの記事にあったが(中略)、欧米メディアの「二重基準」は、イスラム世界の人々には熟知されている。ところが、欧米メディアの側には、その自覚が薄い。だから、風刺漫画の掲載について「表現の自由」という原則をメディアが堅持し、風刺漫画の再掲載を止めないこと自体が、ムスリム側からは偽善的な態度として映ってしまう。

ちょっと検索すると、アウシュウィッツ「ガス室」の真実―本当の悲劇は何だったのか?という本とそのレビューが見つかった。これには、そのアマゾンのページのkokunan678氏のレビューに厳しい批判があるのだが、たとえ問題の多い主張だったとしても議論自体を封じるのはどうかと思う。

二重基準」を解消するには、イスラム教批判に一定の配慮、抑制を求めるか、ユダヤ人問題に関するタブーを取り去って公開の議論を可能にするか、どちらかになるだろう。私はこういう問題については、両方とも「表現の自由」として認めるべきだと考えてしまう。

おそらく、私がそう思ってしまうのは、こういう主張が過去にどういう帰結をもたらしたか、過去の言論人がそこからどのように苦い教訓を引き出してきたかを知らない、つまり、過去を知らない人間であるからだと思う。

しかし、安易に「言論の自由にも一定の節度と抑制が必要だ」と言う人に、私は「あなたは未来を知らない」と言いたい。

これまで、言論や表現に社会的な合意の元で一定の規制を行う場合に、「その規制をいかに徹底するか」ということは問題になっても、「その規制が徹底されることで発生する副作用は何か」という問題は顕在化しなかった。そこまで規制を徹底することは物理的に不可能だったからだ。大手メディアに発表することは不可能でも、ミニコミ紙を発行したり、私的な集会を持つことは、事実上黙認されてきた。

しかし、言論や私生活がネットに依存するようになると、この状況が一変する。何もかも記録し、監視し、規制することが、どんどん容易になっていくのだ。

ネットと言うと、目の前のパソコンで動いている「メール」や「ホームページ」しか理解しない人には、そのような「未来」が見えにくいと思う。「別にパソコンを使わなければいいでしょ」くらいに考えてしまう。しかし、ネットをIPパケットのルーティングネットワークと見て、多様なデータを統一して扱えることの利点を理解している人間には、パケットに乗せられるものの可能性の大きさの分だけ、未来の「監視」がどのように徹底されたものになるかを想像できる。それが自分には想像できないくらい拡大していくことを理解している。

このような「過去」と「未来」の衝突は、いろいろな形で起きはじめていると思う。

どちらも具体的に批判する意図はないが、ここで起きている議論がすれ違っているように思えてならない。

「過去」が「未来」を規制しようとすると、どうしてもあさっての方から強すぎる規制をかけることになる。そして多くの場合、それは副作用が多く実効性が無い。このままでは、おそらく最終的には泥縄式かつ強圧的にP2Pを全面禁止してアングラ化する方向に向かうだろう。

「過去」の意図は過去に承認されたものだったとしても、それは暗黙に過去の「アーキテクチャ」を前提として承認されたものだ。現在の「アーキテクチャ」や未来の「アーキテクチャ」を前提として、どのように「過去」の意図を遂行していくかについて、誰も承認してはいないはずだ。

「過去」を知る人は「未来」の人に「おまえは過去を知らない」と言う。実際に彼は「過去」の歴史を知らない。「未来」を知る人は「過去」の人に「おまえは未来をわかってない」と言う。実際に彼は「未来」を理解してない。

「過去」と「未来」の間にどのような対話が必要なのだろうか?

当ブログの関連記事