「オカルトOK、疑似科学もOK、でも『水伝』はダメ」派向け水伝批判記事集

私はオカルトは完全にOKで、疑似科学(科学で無いものを科学の権威を借りて主張)には批判的だけど、「疑似科学が駄目」と言うなら、『水伝』よりゲーム脳マイナスイオンの方がもっとマズいような気がしていて、だからと言って、『水伝』はいいかと言うと、これはやはりイカンような気がしていて、ということは、「オカルト」「疑似科学」以外に何か『水伝』が駄目な理由があるのだろうと漠然と思っていたけど、それが何だかわからなかったのが一瞬でわかったのが、茂木健一郎氏の批判。(From 事象の地平線::---Event Horizon--- :: 他者性とか理解とか)


第二に、これはおそらく「水は語る」のような本を買って感動する読者の心性を考える際により本質的な問題になると思いますが、「他者性」への感受性が欠落していることです。


自分が善意を持っているから、あるいは何かを美しいと思っているから、他者もその感受性を共有して何らかの感応を示すべきだ、そのような世界は心地よいと思うのは、ファシズム的心性です。


相手が人間であっても、この意味での他者性の尊重は重要な倫理問題になる。ましてや、相手が水だったら、なぜそんなもんが自分と同じ感性を共有していると思うのか。そのような心の持ち方は、世界の中には自分のことなど気にもかけない、絶対的に異質な他者が存在するのだという事実を許容できない、小児的心性と言えるでしょう。植物に声をかけると成長が早くなるといった類の話も、同類です。

「『他者性』への感受性が欠落」なんですね。

まあ、これ一発で十分とも思うけど、こういう観点から見て納得できた、『水伝』批判記事をまとめておきます(書いた方のスタンスが私と一致しているということではない)。

黙想記:『水からの伝言』について。は、「仏教徒であり、輪廻転生といった現代科学では扱いきれない事を、自身にとって事実として受け入れていたりする」という方から見た問題点。


結局、倫理的、宗教的に見るなら、これは「水」という無機な物質に、精神性や霊性を与えて解釈するからであろう。本質的には水の一件はいわいる偶像崇拝である。キリスト教イスラム教は偶像崇拝を極めて忌諱して、これを「人格を貶め、霊魂を悪魔に売る所業だ」という価値観を持つ。結局、神に近づくには人間自身の精神的な、霊的な活動を通じた内面の努力*2 以外にはありえず、偶像崇拝は、そうした神に繋がる霊的な自身の存在を捨て去る事なのだ。

Hal Tasaki’s -<log p>:水は答えを知っているは、「「ニセ科学」どう向き合うシンポ」を企画された、田崎晴明教授のブログで、この記事も本題は科学者としての立場からですが、末尾のこの文章は、私にとっては非常に共感しやすいものでした。


さいごに、個人的な感想を述べれば、この物語はファンタジーとして見ても、決してすぐれたものだとは思えない。「水は答えを知っている」というタイトルにはっきりと現れている「わかりやすさ」は、人生の本当の知恵を与えてくれる「わかりやすさ」ではない。水に聞けば「答え」がわかるというのは、人がよりよく生きるために、悩み、感じ、考えることを放棄させる悪しき道徳だと思う。さらに、「人間の主成分は水」という即物的な事実にもとづいて人の心までをも特徴づけようという考え方には、なにか空恐ろしい不毛さを感じる。人の心というものが科学によって理解される日が来るにせよ来ないにせよ、それは、人間の脳(+肉体)の実に複雑で精妙なはたらきが生み出した驚異的な何物かであろう(あるいは、(私はそうは思わないが)もしかしたら「魂」というプラスアルファがいるのかもしれない)。それを水や元素といった「人間の成分」に還元してしまおうという考えは、人の心への冒涜であるとさえ感じられる。

最後に、直接的に『水伝』を批判しているものではありませんが、近い問題を扱っているように思えた記事。

こころ世代のテンノーゲーム - たとえば宗教というものを〜補い合う「聖」と「俗」〜


(宗教は)人間意識の基本原理として存在する「聖」と「俗」という相補的な関係性を、自分の力で判断できるようにするためにこそ必要なのだ。


「聖」と「俗」のありようをないがしろにするような愚かな物言いを排するためにこそ、必要なのだ。