50代アーティストたちの存在が生む循環的時間認識

ユーミンは万博ファイナル飾るし、山下達郎は新譜を出すしで、小田和正自己ベストあたりから、50代アーティストの存在感が増している。

今の20代のアーチストの中で、30年後に誰が、この三人や矢野顕子大貫妙子吉田美奈子の位置にいるか予想するのは楽しいかもしれない。

僕はこの人たちが20代の頃からずっとこの人たちの音楽を聞いてきたが、そんなことは考えたこともなかった。その頃、「彼らが50代になったらどうしてると思う」と聞かれたとしたら、質問の意味が理解できなかっただろう。

50代の歌手はその頃でもいたはずだが、何も覚えていない。20代のアーティストと50代の歌手は別の世界に見えていた。ユーミンや達郎が年をとった時の姿を無理に想像しても、当時の50代の歌手とは何もつながらなかっただろう。

それは、今僕がいるこの特定の未来、忌野清志郎が高い自転車を盗まれたこの未来が予想できなかったというだけの話ではない。「50代の彼ら」という未来は、当時の若者が感覚的に体感できるものと対応してなかった。SFや未来予測が好きだった僕は、「50代の彼ら」という設問を面白がったかもしれない。彼らが音楽を続けているか、実業家や音楽評論家や作家に転身しているか。そんな話で盛り上ったかもしれない。でも、そこには、何の具体的なイメージもない。火星への有人宇宙船のような、ただの抽象的な話だ。

そこにある空白は、今の人には理解できないに違いない。そこにある空白と同様に、僕の未来は空白だった。僕の荷物は軽かった。

今の人に、好きなアーティストを聞いて「彼らが50代になったらどうしてると思う」と言った時、そこには補助線となる50代アーチストがたくさんいる。彼らは、その問題を具体的に考えることができる。誰かは、イベントの大トリを飾る大物になっているし、誰かは、コンスタントにマイペースで新譜を作り続けるし、誰かは、文化人的に時代をリードし続けるだろう。「50代の彼ら」という問題は、あり得ないような未来を無理に想像する論述式の問題ではなく、すでに存在する選択肢を組み合わせて選択するだけのマークシート的な問題になる。

そして、今の20代アーティストが50代になったら、そこにも20代のアーティストがいるはずだ。量的にはそういう人に押されつつも独自の存在感を持って活動を続けている50代の中島美嘉オレンジレンジくるりを、今の人は容易に想像するだろう。そして、その20代アーティストもまた50代になり、さらに若い人に押されながらも、何人かは音楽を続けていく。

そういう循環的な時間感覚を今の人は無意識に持っているのではないか。

僕らは、直線的な時間感覚の中で育ち、未来が空白のまま若い時代を生きてきた。今の人は、循環的な時間感覚の中で育ち、未来が現在の繰り返しだと思っている。「50代アーチスト」という言葉は、当時の僕らにとっては、考えられないもの、あり得ないもの、今だこの世を訪れていないものの象徴であり、今の人にとっては、すでに存在し循環する未来の象徴だ。

今の人でも、頭が回る人は、時代が進歩して未来が予測できないことを理解する。数学のように抽象的には理解するかもしれない。でも、体感的には彼らもまた、循環的な時代感覚の中で生きている。彼らの知性は、体感する循環的な未来の重みを支えることでせいいっぱいだ。

循環的な時代感覚が、必ずしも悪いわけじゃない。中世の人はみんなそうだったしそれで平和に暮らしていた。でも、今の人は体感的に感じる時間認識と意識的に受けとるメッセージの葛藤に悩み、その感覚を重荷やしめつけと感じていると思う。

20代アーティストと大差ない50代アーティストの存在は、若者にとっては呪いだ。彼らの存在が、空白の未来を封じて、循環的な未来を想起させる。いやそうではない。50代アーティストと大差ない20代アーティストの存在が、呪いなのだ。アーティストは、今だこの世を訪れていないものの予感であるべきだ。常に世界の亀裂であり続けるべきだ。