差別が生まれる瞬間

先日、デパートのサービスカウンターに用事があって、行ってみると、カウンターの中と外で店員同士が話をしていた。カウンターのこちら側に、30代くらいのいかにもデパートの接客業務のベテランのような男性がいて、カウンターの中の女性店員に何か書類を指さしながら指示をしている。

その男性の後でしばらく待っていたがその会話は終わらず、カウンターの中の店員は、指示に従って何か奥の棚に取りに行ってしまった。「客を待たせてそういうことをするか」と思って、その男性店員に見えるように、彼の横に立ってみた。

あきれたことに、女性店員は戻って来るとまたその男と話を始めるし、その男も私が見えるはずなのに、全く構わず話を続けている。そこで、温厚な私もブチ切れて「すみません」と割り込むように女性店員に声をかけてみた。

そしたら、ますます驚いたことに、その女性店員は唖然としたような顔をして、それから気をとりなおすように「しばらくお待ち下さい」と言って、さらに男との話を続ける。どこまで客を待たせても、店員同士の会話を終わらせることの方が重要らしい。

「何というデパートだ。こんな所には二度と来るもんか」と思いながら、私は呆然と二人の話を眺めていた。

それで、そこに至ってやっと気がついたのだが、男性店員だと私が思いこんでいたその男は、一般客だったのだ。着ているブルーのワイシャツが、そのデパートの接客員の制服と全く同じ色で、整えられた髪やきっちり剃られたヒゲが、いかにもそういう仕事に練達した雰囲気の人だったのだが、このデパートとは関係ないただの一般客だった。

それに気がついて「あっ」と思った時に、その男は「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言って、何かチケットのようなものを受け取って、店を出て行った。

「うわっ、そういう訳だったのか」と思う間もなく、「お待たせしました」と声をかけられて、私はちょっとした質問と案内を依頼した。頭の中では、「しまったなあ、不機嫌に『すみません』とかせかして悪かったなあ」と思っているが、会話が進むので、それを謝る暇がない。

会話は進むのだけど、私は、その女性店員の言っていることが聞きとれずに、何度か聞きかえしてしまった。

その瞬間の、その店員の表情が忘れられない。

その瞬間、一瞬だけ、職業的な微笑と滑らかな口調に断絶があって、「何なんだこの変な中年男」という、軽蔑と不安と怒りと困惑がいり混った表情を、ほんの一瞬だけ浮かべたのだ。

この店員から私を見ると、私は、何の理由もなく先着の客より自分を先に処理しろと高圧的に迫ってくる、不機嫌で扱いにくい客だったのだ。そこで彼女は、自分を閉じて職業的な義務だけを果たそうとした。その説明を聞き返されて(それは音声と内容としては明解な説明で、普通であれば聞き返すことがあり得ない簡単な内容だったから)、彼女もブチ切れて一瞬だけ我を失ったのだと思う。

そこにはやり場のない悪意があった。つまり、この状況は彼女にとっても大きな疑問のある状況である。「いったいこの男は、そんなたいしたことの無い用事で怒りながら何を急いでいるのか。しかも急いでいる癖に、こちらの説明をよく聞いてない」その不条理さが行き場の無い悪意となって、彼女を埋めつくしていた。

しかし、それは一瞬のことで、すぐに職業的な微笑が復活し説明はあっという間に終わり、私は謝罪する機会もなく、カウンターを後にした。

私は全身で彼女の悪意を浴びて、それから数日嫌な気分だった。もちろんこちらの一方的な思いこみで自業自得である。彼女の行動と感情は、何の曇りもなく当然の反応だ。ただ、謝罪と説明の機会がなくて、不条理さがそのまま転換した悪意の対象とされたことに、自分の気分は納得できない。

その結果、体感したことなんだけど、ああ、差別というのはこういうふうに生まれるのだなあということ。

もし、私が外国人であったら、「○○人って滅茶苦茶勝手で嫌な感じ」と彼女は思って、そのイメージは、彼女の中で長い間、ひょっとしたら一生続いたことだろう。彼女の中で不条理さが、そういう出口を求めていた。おそらく、彼女は「中年男って滅茶苦茶勝手で嫌な感じ。もうあんなの死んで欲しい」くらいに思っていただろう。しかし、中年男がセクハラオヤジだったり自分勝手だったりする経験なら話は簡単だけど、今回のようにそこに不条理さが加わると、その怒りはうまく「中年男」というカテゴリーとは結びつかない。

おそらく彼女は、全身全霊で「この変な男は何ジン?」と、私の不条理な行動を、自分の世界の外にあるカテゴリーと結びつける道筋を探していたのだと思う。でも、「中年男」以外にそういう適切なカテゴリーは発見できなかったようだ。

異文化から来た人は、今回の私のような失敗を、何の落ち度もなくしてしまうものだと思う。デパートの店員風の男をデパートの店員と思いこむ以上の勘違いが、異文化から来た人にはたくさんあるに違いない。回数が多ければ、ちょっとした勘違いが笑い話に帰着せず、お互いがジットリとイヤーな気分で終わってしまう失敗も多いだろう。それは、自分にも相手にも落ち度がなくても発生する。

そして、それについては後で気がついても謝罪したり説明したりする機会は与えられず、ただ悪意と差別だけが残る。そういう不条理感がお互いの中に蓄積し、「○○人は‥‥」という思いこみが感情的な怨念として固定する。

あの店員には申し訳ないことをしたと思うけど、彼女の悪意を説明無しに溶かすことは、かなり難しいと思う。「世の中にはいろんな人もいるからそういう人もいるよ」とか言われて、納得できる経験ではないだろう。

そして、ちょうどそれに対応する不条理感とつらさが、私の中にもある。説明の機会がなくて、悪意の視線に晒されるしかないという体験は、短い時間でもつらいものだった。差別されるというのは、これがずっと継続するということなのかと思う。