中の人などいないっ!

電車男ネタ説はほぼ確定のようで、あちこちに情報がありますが、電車男@FAQにまとめられています。私は自分で検証してはいませんが、だいたいもっともな疑問だと思います。

ただ、ネタ説、つまりこれがフィクションとして創作されたストーリーであり、発表の場および宣伝媒体として2ちゃんねるを利用したという説では、どうしても納得できないことがあります。全く感覚的なものなので、これが反論として成り立つとは思っていませんが、とりあえず、自分の感じたことだけを書いてみます。

私の感覚では、フィクションというのは、作者の存在が濃厚に匂うものです。「創作は作者の人格の反映だ」と言うと純文学や芸術にしかあてはまりませんが、エンターテインメントにもそれはあると思います。むしろ、エンターテインメントとしての制約の中で、かえって作者の存在感が増してしまうことがあると感じます。

わかりやすい例で言うと、「巨人の星」や「あしたのジョー」における梶原一騎風味。「スターウォーズ」のジョージ・ルーカス風味。「ET」や「AI」のスピルバーグ風味。

こういう作品では、主人公の性格は作者のそれとは違いますが、主人公を中心にした人間関係やドラマの起こり具合の中に、作者の存在を感じます。作者の内的宇宙の中で起こった事件をうまく昇華して、1級のエンターテインメント作品にしているのだと思います。

エンターテインメントは、既存の枠組みから大きくはずれることはできないので、宿命的にマンネリが避けられません。それがヒットする為には、プラスαの新鮮味が必要で、そこに作者の存在感が出てしまうことは必然だと私は思います。

もし、電車男が全くフィクションであったら、そこに中野独人(中の人)という匿名の作者の存在が感じられるはずです。そして、電車男の実在感より中の人の存在感が勝ってしまうと思います。

これは、全くの感覚の問題なので、ここまでの論理には同意する人の中にも、「電車男のストーリーには中の人の存在感だけを感じる」として、むしろ、このロジックをネタ説を補強するものと思う人もいるかもしれません。実際、エルメスさんは、白木葉子レイア姫のように男性の脳内に住む人物のようにも思えます。

しかし、私には、どうしても「中の人」の存在が感じられないのです。脳内人物をストーリーに登場させると、そのストーリーの世界が誰かの夢の中であるような感覚が生じます。だから、世界から作者が匂ってくる。そういう意味での、「中の人」の存在感がないんですね。

だから、ネタ説の状況証拠は充分であるとは思うのですが、「中の人」の存在感が無いことに対応する、何か重要な事実がまだ隠されているように感じます。だから、電車男実在説というより中の人不在説。

(このエントリーは、不確定事実に対する論評においてどっちに転んでも絶対失敗しないようにそれなりのことを言うパターンになりますので、蔓延を防ぐために、誰かなるべく早めにメソッド名をつけておいてください)