ノーリスクな人生なんてない

死んでしまったら私のことなんか誰も話さない: 女の生き方(エビータとクレオパトラ)に次のような言葉が


塩野七生は「ローマ人の物語」で、エジプトの女王クレオパトラの生き様を考える際、「ひとかどの女ならば生涯に一度は直面する問題」として、こう説いた。優れた男は女の意のままにならず、意のままになるのはその次に位置する男でしかない、と。

これを見て、徳保さんのお母様のお話を思い出してしまいました。

梅田望夫さんが見ている、どこか遠い世界


もったいないと思う人は多いでしょうが、私はそう考えない。余裕をもって仕事をして、気楽に生きていくという幸せの形がある。私の母がそうでした。高校時代、トップクラスの成績を誇りながら進学せず、就職。10年くらい働き、簡単な仕事を簡単にこなして楽しく旅行などしていたわけです。そして非才の父と見合い結婚し、あっさり専業主婦におさまりました。


才能を十全に発揮することに関心がなく、結婚相手まで非才の人を選んだ母は、しかしこれまでの50余年、幸せな人生を送ってきたと思います。当人も常々そう語っているし、周囲の声も同じ。世の中には、こうした幸せの形があります。

しかし、こういう生き方には特有のリスクがあって、やはりそれもチャレンジだと思います。

おそらく、徳保さんのお母様にとって「この人は私の意のままにできる」ということにはかなりの確信があったと思います。そして、ご主人を意のままに転がした人生がどういう人生になるか、それも結構する時に相当にプランが描けていたでしょう(失礼な言い方ですみません)。

しかし、「才能を十全に発揮する」機会のない人生を自分が歩んでいった時に、その人生の中で自分が幸せでいられるかどうか、その点には、完全な確信はなかったのではないでしょうか。

人生とはコミットして生きてみなければ、最終的な結論は出ないものです。そして、幸せはノーリスクで得られるものではありません。幸せな人生は、リスクテイクしたお二人が一緒に努力した結果として得られるものだと私は思います。

また、転がされる立場であっても、一人の人を幸せにすることは大変なことです。自分のパートナーが「幸せな人生だと常々語っている」人を、「非才」と呼ぶのは適切ではないと私は考えます。

だから、個人の問題としては「気楽に生きていくという幸せの形」と「上昇志向」の間に、それほど大きな違いがあるとは私には思えないのです。自分へのチャレンジを受けとめて、才能を開花させなければ、幸せは得られない。そのチャレンジが何であってどの方向に才能を開花させるべきなのかは、誰がどうサポートしても、個々人に確実な答を外から与えることはできません。