日中韓で自国文化の重層性のときほぐし競争をしましょう

きのうの記事を書いてみて、いただいたコメントを読んでみて、あらためて思うのは、日本人の精神構造はややこしいということ。

井沢元彦さんが言うように神道アニミズムの断片のようなものが確かに現代の我々を支配しているし、もちろん、仏教、儒教がそこにかぶさっている。儒教と言っても、朱子学国学石門心学の流れは、オリジナルがすでに孔孟の教えからだいぶかけ離れている所があるようだし、それに対する独自の日本的味付けもかなり濃い。それが明治以降の資本主義と富国強兵政策に与えた影響もかなり大きいと思われるが、かと言って、江戸時代の人と我々がスムーズに意思疎通できるかと言えば、当然、欧化されアメリカナイズされグローバリズムに侵食された我々と、江戸時代の人の間にも大きな隔りがある。

確かに我々の精神構造は重層的である。

しかし、では欧米の人はそうではないかと言えば、もちろんそんなことはなくて、浅学非才な私でもとりあえず、ギリシャローマとキリスト教という二層性は指摘できる。キリスト教と言っても、砂漠の一神教三位一体説によって独自の発展あるいは変質をとげたことや、プロ倫のことを考えると、かなり重層的にできている気がする。

ただ、その重層性が本を読めばわかるようになっていることが違うのだと思う。

そもそも、ルネッサンス以降の西欧文明がグローバルであるというのは、それがシンプルだったり論理的だったりするのではなく、本を読めばその重層的成り立ちが理解できるようになっているだけのことではないのか。

欧米文明が世界征服できたのは、そういうことに熱心だったからで、例えばフロイトなんかも、そういう「ときほぐし」の方法論におけるイノベーションであることが評価されているようにも思える。

だから、同じようにここに馬鹿なことを書いていても、西洋哲学に関することを書くと、「おまえは馬鹿だ」「おまえは無学だ」と言われている感触が強い。もちろん、書いてくれる人は親切で書いてくれているのだが、そういうコメントの背後にある膨大な蓄積を感じてプレッシャーを感じて被害妄想が発火する。

しかし、日本論でいいかげんなことを書くと、「なるほどなあ」と思えるコメントをもらっても、感じるものはその人個人の知性であって、意図せずプレッシャーを与えてくる背景としての学問の蓄積を感じない。

「欧米人の精神が多層的でわかりにくい」と言うと「おまえが不勉強だからだ」と言われそうな気がするが、「日本人の精神が多層的でわかりにくい」と言えば、「これは鋭い問題提起だ」と褒められる。この違いは、本質的なものではなくて、単にどれだけ本が書かれているかの違いである。

同じことは、中国と韓国についても言えていて、あちらのデモや政治家の言動や、よくわからない法律や外交方針なんかを、グローバリズム地政学的解釈と日本的倫理で無理にとらえようとすると、無茶苦茶で不気味に見えることが多い。それは誤解だと思うのだが、「じゃあ何の本を読めばいいのだ」と言った時、やっぱり読む本はないのではないだろうか。

特に中国は、これから超大国としてアジアの盟主となろうとするのであれば、自らの多層性をきちんとときほぐし、儒教的な倫理の本音と建前とかを外国の人間にわかる形で発信すべきである。

それは新書の一冊や二冊で済むものではない。ていうか「これ一冊でわかる○○人の精神と行動様式」なんていう本は、ほとんど「ト」の系統か詐欺本であって、その多層性のすみずみに重箱の隅をつつく人がたくさんいて、はじめて学問と呼べる。

これができてはじめて、その文化は「グローバル」と呼ばれる資格を得るのだろう。

日中韓で、この「自国文化の重層性のときほぐし解読解説競争」をしたらどうだろうか。どうしたって、お馬鹿な街宣右翼便所の落書き掲示板や独善ブログは出て来るので、そこに現れている国民性や無意識的な願望を、いかに多様な観点からわかりやすく解説できるかを競うのだ。

この競争に勝てば、ローコストでいかようにも世界進出、運が良ければ世界征服できてしまうわけで、つまり21世紀は人文系で国力が左右される時代なのだ。

人文系ガンガレ、超ガンガレ!