弱者と向きあう功利的な理由

武田徹さんの日記の4/26の「弱さについて」という文章に共感する。

弱者の側に立つのは、社会正義の為ばかりではなく、それが自分に役に立つこともたくさんあるからだ、というお話。


弱者を内部に抱え込む集団で弱者の弱い部分を補うために人と人の靱帯が育ち、非効率的でありながらしたたかな強さを持つ場合がある。


弱者の不適応を改める教育の試みは、たとえそこで「実り」が上がらなくても、いや、成果が出ずに悩まされればそれだけ、教えようとする者にとって、それまで教えられてきたことの自明さを疑ってみる再教育の機会になる

私が思うに、自分が目にするもの(=気になるもの)は、自分の中に存在するということだ。それを排除することは、自分の一部を排除することであり、それは自分の可能性を殺すことになると思う。

弱者である自分とそれを排除したい自分が両方自分であることを認めて、両方をかかえこむことで、その両方であるトータルな自分になれると思う。

全体的には共感するけど、そういう意味では、次の一節だけは微妙。


弱者を受け入れられない人は実は相対的には弱い。そんな人は一番弱い弱者が排除されたあとに、次の排除の標的となる。しかしそこまで頭が回らず排除に躍起となる。それが自分を苛む結果になるとも知らずに。

ここだけは、一番目の弱者を抱えこむかわりに二番目の「頭が回らない」弱者を排除する論理につながりそうな所が微妙に気になる。

(追記)

finalventさんも、同じ記事を取り上げていた。私は書いてから気がついたけど、たぶんシンクロニシティ

中身もシンクロしてる…と思う。