「空気」の研究

「とてもそんなことを言える『空気』ではない」という時の「空気」を論理的に考察した本である。

山本七平氏は、日本には「空気」という「まことに大きな絶対権を持った妖怪」がいて、これが日本における意思決定を左右し、非論理的で自滅的な方向へ組織を向かわせると言う。そして、その典型例として、太平洋戦争末期の戦艦大和の出撃に触れる。


この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。
だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」で決められる。(P16)

最後まで(「空気」を知らずに)反対していた伊藤長官という人は、


「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」といわれれば、ベテランであるだけ余計に、この一言の意味するところがわかり、それがもう議論の対象にはならぬ空気の決定だとわかる。そこで彼は反論も不審の究明もやめ「それならば何をかいわんや。よく了解した」と答えた。この「了解」の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことはサイパンで論証ずみのはずである。従って彼は、「空気の決定であることを、了解した」のであり、それならば、もう何を言っても無駄、従って、「それならば何をかいわんや」とならざるを得ない。(P18)

多くの企業の不祥事の背後には、こういう「空気」による意思決定があるのではないかと思う。

例えば、みずほ銀行のシステム統合失敗が、この典型に思える。おそらく、移行の直前には、もはやこれで強行しても成功の可能性はほとんどなく、延期することが最善の道であることは明白だったのではないだろうか。ひょっとしたら、上記のような会話が行なわれて「それならば何をかいわんや。よく了解した」とCIOあたりが言っていたのかもしれない。

実際に、日本の企業は「空気」で動かされる場面があり、それによって従業員や下請けは振り回される。いや振り回されているのは、本社も上層部も同じであって、「空気マター」となった案件は、誰も止められない。

公共工事の「丸投げ」が問題となっているが、ITにおける「丸投げ」批判は、元請けが「空気」の世話をしている可能性も考慮すべきである。コンピュータシステムの開発では、目的や対象範囲、スケジュール等の要件が変化することで、開発に致命的な支障をきたすことがある。それを明確にして、どうしても変更がある時には、影響を見極めそれなりの追加コストを調達しなければならない。それをするのがプロジェクト管理であるが、「管理(=マネージメント)」と言う以上は、論理的に対象化できる事項のみを扱うのであって、それにあてはまらない「空気」を対象とした管理もあるのではないかと思う。

「ここで延期を言い出せる『空気』ではない」とその一言を言う為に、元請けが存在していて、意外とその調整機能は重要だったりするのではないか。技術的に負担が大きい割には注目度の低いサブシステムを見つけて、それをセレモニー的なデッドラインからはずしたりして、「空気」に逆らわずに、無理のない工程に関係各所を誘導する暗黙知的なテクニックがあったりするような気がする。

それで、相手が同じ日本人主体の組織であれば、その「空気」というものがわかる。もちろん利害打算もあって、多少は文句を言ったりするだろうが、「これは変えられない『空気』である」ことは共通に認識していて、その上で、金額を上乗せするとか他の案件を遅らせるとかの交換条件を折衝するわけだ。

だが、機械にはその「空気」というものを認識できない。SEは「空気」と機械の間のコンフリクトに四苦八苦することになる。

山本氏のこの考察の背後には、砲兵としての従軍経験、それもジャングルの中をさまよい部下の全滅を含むさまざまな死を目撃して、命からがら生還した、壮絶な体験がある。私の中の日本軍には、それが読んでて嫌になるくらい詳細に書かれている。例えば、湿地帯を移動する時に、無数のヒルにやられる話とか、マラリアで高熱が出ても生きのびることはできるけど、足をやられたら生きたまま置き去りにされ放置されるから、足だけは必死で守る話とか。

IT産業のデスマーチで「討死」しても、冷房が効いてる部屋で弁当は食えるわけで、壮絶さには大きな違いがあるが、陸軍の中で、「空気」を理解しない大砲とともに移動する苦労と、プログラムが無いとどうしても動かないコンピュータのおもりをする苦労には通じる所がある。

企業の中でSEをしていると、その「空気」はわかるけどプログラムができてないという状況に何度も直面してしまうものだ。そこで、「空気」を対象化して論理的に考察せざるを得ないというのは、元砲兵と元SEが共通に思うことかもしれない。私も、空気の読める人の革命という文章を書いたことがある。

ただ、共通しているのは入口だけであって、山本氏の考察は深く、「日本=『空気』、西洋=『論理』(あるいは『個人』)」という割り切りで終わることない。西洋にも「空気」に相当するものはあるが、それが「神」として対象化されていて、それ以外のものは全て相対化するのが一神教の世界観である、というふうに、その根本を探り、本質的な構図を明かにしていく。

つまり、「『空気』をやめて『論理』に一本化せよ」という対策は、人間には不可能なのだ。過去の全否定はその方向に行きがちで、だから、「大和」と「みずほ」で我々は同じことを繰り返している。どうしても否定できない「空気」というものを、自分たちの中に見つけて行く為に、この「『空気』の研究」は読まれるべきだと思う。