自選ワーストエントリー

祝い強制企画の次は、自分でワーストエントリーを選んでみたい。

消してしまいたい記事はたくさんあって、その理由もそれぞれたくさんあって「ワースト」は簡単には選べない。しかし、私が一番見たくないエントリーはズバリこれである。

ここから数日のエントリーは、今でも見るのがつらい。

それは、ここに書いたことが間違っていると思うからでもないし、言うべきでなかったことだと考えているからでもない。ブログは生物(なまもの)であって、その時点で考えたことをきちんと書いて、言われたことをしっかり受けとめていれば、たとえ、後でそれが偏見であることが明かになったり、自分の考えが変わったとしても、それでいいと思うし、よほどのことでなければ消すべきではないと思う。

特に、私のようにひとつの表現としてブログを書いていると、どうしても譲れない自分ルールみたいなものがあって、これは、自分としてはこう書くしかないことをその通りに書いたと今でも思っている。

しかし、ここに私がそれを書いたことで怒っている人や傷ついている人がいることも明白なことだ。

祝い強制企画にたくさんのコメントいただいて、ふだんコメントしてくれている人や自分でブログを書いている人とは違う感想を、いくつもいただいた。選んでもらった記事のうち、いくつかは予想外のものであり、いくつかは自分がよく書けたと思って反応が薄かった記事であったりして、そういうものを出してもらえるとやはりうれしい。

読んでいる人のことは、普通にみなさんが思うよりはよく把握しているつもりだが、それでも当然、わからないことが多いことを実感した。もちろん、この企画にコメントしてない人もいるわけで、「実感した」と言ってる今も全てがわかっているわけではない。

そのことは、プラスマイナス両側について言えることだ。

たぶん、私が「日本で資産家と言えば」を書いたことで、怒ったり傷ついた人の中でコメントをくれた人の方が少ないと思う。黙ってしまった人がその数倍いるはずである。そういう人たちの感情を、全てわかったとは思わないが、祝い強制企画で得たものを符号反転することによって、少しはそれを想像する力が増したと思う。

それが増した分だけ、私はほんの少しだけ強く痛みを感じる。

私がああいう記事を書いたことで怒った人は、元記事のてんこもり野郎さんがそれを書くより、私がそれを書いたことでより深く傷ついたのではないかと思う。それはうぬぼれになってしまうのかもしれないが、そういう意味ではてんこもり野郎さんより、私の方が罪が深いと思う。いや、私は悪いことをしたとは思ってないので、正確に言えば、私の方が業が深いということだ。

私は、今ここに書いていることを書くしかない人間であって、そういう人間に言論の自由を与えれば、ああいうことを書く。もちろん、同じことを同じようには書かないが、私の業の深さは簡単には変わらないから、私が何をどう自主規制しようが、私に自由にモノを書ける場がある限り、私はまた誰かを傷つけるのだと思う。

「圧力がかかったのか?」と思うたびに、「ああこれでもうモノを書かなくてすむのかもしれない」と安心する自分がいる。「早く誰か私から言論の自由を奪ってくれ」と叫びたい自分がいる。

なぜ、私は自分の「正体(who)」をそのように晒さなければならないのか。その意味は今だにわからない。それを知るために私は、さらなるワーストエントリーを書いて自分を晒すことを続けなければならないような気がする。