紛争処理の多元化と正しさという利権

bewaadさんから回答がありました

まず、「ADRの活用」という方向は賛成です。


こうした準司法機関、特に民事に属する事柄について当事者の合意形成の促進を図るものは多くの場合ADR(Alternate Dispute Resolution, 訴訟外紛争解決(手段))と呼ばれ、ポータルサイトがあるほど既に活用が図られています(といいますか、最近の流れとしてはもっと活用しよう、という方向性です)。裁判は強制力がありますからその分厳格な手続が要請されるので、効率性に劣るという欠点があります(乱暴なまとめですが)。コミュニケーション不足が紛争の原因で、第三者が間に入って調整すればより迅速・柔軟に紛争解決が図れるのであれば、その方がいいだろうというのがADRの思想です(これも乱暴ですが)。

というか、こういう言葉を知りそういう観点を獲得できてよかったです。

今までは、モメ事があると、まず当事者同士で話をして、決裂したら裁判と、その両極端しかなかったわけです。当事者同士の話し合いと裁判(司法制度)では、次のような点が対照的です。

  • 強制力があるかないか(強制力か納得性か)
  • 解決までの時間を優先するか手続きを優先するか(コスト、スピード)
  • 正当性保証の為のシステムがあるかないか(おかしな結論になる可能性)

当事者同士の話し合いで解決すれば、時間がかからず面倒くさい手続きはいらないし、お互いに納得して後を引かないで解決することができます。その代わり、利害に関係ない人は誰もチェックしてないので、とんでもないおかしな結論になる可能性があります。また、その話し合いの結果が守られるかどうかも、当事者同士の信義の問題になります。

裁判は、その判断の質を保証するシステムが何重にもあります。司法試験とか、専門家(弁護士)が両側につくとか、上告できるとか、何より法律という枠組みがあることです。これ全て、コストと時間を犠牲にして正しさを保証する仕組みです。その保証があるから強制力を与えられています。

それで、ほとんどの側面についてこの中間にあるものが、bewaadさんが準司法機関とおっしゃっているものだと思います。

強制力という点では、物理的に立ち入り調査をしたり拘束するような権限はないけど何かを宣告する権限は持っています。手続きは司法のように厳格なものではない分、すぐ柔軟に動ける。ただ、中の人の主観だけで動けるわけではなく、ある程度の枠組みや任務は決められています。外部からのチェックはないけど、内部では合議制の運用などで質を保証する。

この左右両極の間に、さまざまなADRが散らばって存在しているのはいいことだと思います。徳保さんのコメントにある公取委ADRの中ではやや司法よりで、強制力が強い分だけ、法的な根拠や手続きの厳格性はあると思います。株式会社ウェディング問題を考える会は、立場的には民間というか私的なものですが、多くの弁護士やネットワーカーが参加していて一定の公共性を担っていると言ってもいいと思います。これは、民間よりのADRですね。

いろいろな立場のADRがあるということは、紛争処理の多元化ということで、価値観が多様化する時代にはふさわしいと思います。

しかし、ADRはそれぞれが独自の価値観を持っています。例えば、NHK番組改編問題で話題になった民間法廷も、(ADRという用語に含まれるかどうかはわかりませんが)この流れに入るような気がします。しかし、少なくとも問題の法廷については、政治的なスタンスという意味では、明かに特定の立場に立っているし、手続きの透明性や国際法的な常識の観点からは多くの批判があります。

ADRが機能するかどうかは、それぞれのADRが自分自身の立場を相対化できるかどうかにかかっているのではないでしょうか。

例えば公取委は経済に関わらない問題は扱わないでしょう。ある範囲で彼らの判断基準は絶対的なものですが、それは範囲の限られたものです。その範囲の外では自分たちの判断基準が通らないことは、彼ら自身も納得しているし、外部もそのように見ています。

人権に関わる活動をしている人は、その点(自身の価値観を相対化し活動範囲を適切な範囲に限定できるのか)に不信感を持たれているのだと思います。職員手帖に六曜が記載されていて回収という事件がありましたが、私もこういう人たちの運営するADRが、自身を相対化して活動範囲を適切な枠に限定できるようには思えません。

boxmanさんのコメントも似たような懸念を示されているように思えます。非常に重要な指摘だと思うので、全文紹介します。(段落分けは引用者による)


あの、たぶんこれ暴論なんですが、法案の中身がどんなに適正でもこの法律はうまく運用できないと思います。あんまりいいたくないことですが、日本における差別の最大の問題はessaさんのおっしゃる「「おまえは人権侵害野郎だ」というバツ印は重い」という部分にあると感じているからです。


その「重さ」が欧米的な利害の軽重ではなく、文化や倫理のレベルのものになってしまっているために逆に「差別」そのものが利権化する現象が起きている。


誤解されそうで嫌なのですが、ここでいう「利権」は必ずしも「一部マイノリティ」による逆差別のことではありません。たとえば私はマスコミは差別批判をおこなうことで権力というもっとも強力な利権を得ている存在だと思っています。


差別という概念が厄介なのは、それが自動的に「正しさという利権」を保障してしまう部分にあり、その部分が解消されない限りそもそも「第三者」が成立しえない気がするのです。個人的には差別をコミュニティー間の利害対立として処理できるくらいドライな社会通念が確立されなければ、どんなに適正な法律でも「正しさという利権」を強化する意味しか持ち得ないと思っています。

以前私が書いた、聖俗と公私のよじれという問題がこれにつながっていると私は思います。公は俗であるべきです。少なくとも西欧的な制度はそうしないと機能しないようになっています。しかし、日本では公が聖とリンクするために、多元化が難しいのです。

世の中には悪い奴がいて、悪い奴がおいしいネタを探せば、自然と「正しさという利権」に向かいます。「聖」という属性がある分だけ、その利権は使い勝手がいいのです。社会制度を設計する以上は、そういう存在を計算に入れるべきだと思います。人権擁護法案が、そういう連中に格好のネタを提供してしまうことは考慮すべき問題だと思います。

一方で、差別で苦しんでいる人も確かにいます。それも否定できない事実だと思います。私のブログにも、在日三世の方からコメントをいただいたことがあります。

問題は、悪い奴と苦しんでいる人を重ねあわせて見てしまうことだと思います。私自身、そういう傾向があって、それへの反省からタブーを巡る強者と弱者という文章を書きました。人権擁護法案はその傾向を加速するように感じます。

問題は「聖=公」的なものに寄生する悪い奴を批判する言葉が奪われていることではないでしょうか?「奪われている」というのは、規制されているという意味でもあるし、規制が解かれてもそれを表現し適切に批判する概念、ロジックを持っていないという意味でもあります。日本では、そのような言葉を獲得して初めて、ADRによる紛争処理の多元化が機能すると私は思います。