株主(かぶぬし)と乙事主(おっことぬし)と国主(くにぬし)
「株主代表訴訟」という言葉の中には、「かぶぬし」という和語がある。これが例えば、「所有権者代表訴訟」というように漢語だけでできている言葉であったら、テレビでアナウンサーがこの言葉を発する時に、我々の脳内に生起するクオリアは、随分違ったものになるだろう。
「ぬし」と言われると、沼の主のように、普段はいるんだかいないんだかわからないが、人間どもが悪さをしてそれが限度を超えると、突然出現して、恐しいタタリをなす存在のようである。「株主代表訴訟」は、まさにそういう「ぬし」というロールを果たしているようだ。配当というお供えものを欠かしたことだけを怒っているのではないだろう。
stock holder と言うと、いかにも一時的にholdしているだけで、何ら積極的な役割を果たすイメージがない。「かぶぬし」という言葉を受けついでいる、我々の幸運に感謝すべきであろう。
そして、乙事主(おっことぬし)は、鎮西の山の主であるが、偉大ではあっても「鎮西」という地域名がつくローカルな存在である。我々の世界観には、さらにこれがタタリ神となって暴走した時に鎮める機能を持つカミという存在が含まれている。「カミ」は「ぬし」の上位にあるが、人間に射殺されたりすることもあり、やはりグローバルとは言えない。「ローカルな超越者」という観念を持つことも、その幸運の一部である。
長(おさ)というのは、何より民を代表してそのような「ローカルな超越者」に対峙する人間である。社長と呼ばずに「おさ」と呼んでいれば、過剰な流動性に抗して多様性を維持する、伝統の知恵との接点を維持できたのかもしれない。
経済の中と同様、政治においても、その接点は失われている。国民と呼ばずに国主(くにぬし)と呼んでいれば、「国主代表訴訟」という制度はなくても、「おさ」たちが敬意を持たれない理由を、彼ら自身でちゃんと反省できたのではないだろうか。
ニートの出現は、国主が乙事主のようなタタリ神になりつつあるというシグナルだ。スクリーンの中ではそのタタリ神は顕在化しなかったのだが、スクリーンの外にはそれを鎮めるべきカミがいないし、それより何より、我々は観客ではない。一人一人が「ぬし」に対峙して祈るしかないのだ。そのような「ぬし」というクオリアを受けついでいることが、我々に最後に残された幸運なのだと思う。