在日韓国人の国籍と権利について --「[?date=20050203#p02:title=マイナーにとっての負荷]」の例題として

まず、気になった記事のクリップ

特に、Junkyさん(id:tokyocatさん)の「名目を実質に合わせる」という考え方には共感します。

しかし、その「実質」というのが非常に複雑で、過去、他国の事例が参考にならないものだと思います。「マイノリティー差別」や「移民問題」というような、ある程度確立された概念に頼ることができないのではないでしょうか。

ということは、制度を変更する為には、かなり泥臭いとこから掘りおこして徹底的に議論する必要があります。ここで、昨日のemanonさんのコメントの後半にからむ問題が出てくると思います。


で、ネットとまったくちがうところにあって、なおかつ拮抗しうるのが「クローズ」の部分というものなのかもしれません。最近よく見かける、「固有名」や「個別性」という言葉が参考になるような気もしています。

この問題について徹底的な議論をするとしたら、在日コリアンの人たちの「固有名」や「個別性」と言われているものが、公的な議論の俎上に乗せられてしまう可能性があります。

(特定の観点以外からの)議論を拒否して「自分たちに都合のいい制度に変えてくれ」という話ではとても受けいれられませんが、「固有名」や「個別性」にどこまでもツッコミを入れるというのは正しいのか、一部の人にだけそのような負担を強いるのは不公平ではないか、そういう疑問もあります。

例えば、「どういう経緯で、在日コリアンの人たちは日本に来たのか?」という情報はこの問題を考える為に絶対必要だと思います。できれば、統計的、全般的な情報だけでなく、例えば、誰かのおじいさんの話のような具体的な話も聞きたい。

しかし、誰かがそういう情報を出したら、その情報は徹底的にチェックされあらゆる観点からつじつまの合わないことを指摘されます。悪質な情報操作を防ぐ為には、それも必要なことだと思います。しかし、「うちのじいさんがね」とか「もともと俺の家はさあ」で始まる話には、多少の神話が含まれているのが自然で、それを客観的事実と照らし合わせていちいち矮小化していくというのは、不快な体験です。その不快さを受けいれないとある権利がもらえない人が一方にいて、その神話を持ち続けたままその権利を持っている人が一方にいるのは不公平だと思います。

だから、どこかに境界線を引くことが必要です。これまでは、議論の方向を制限することで「固有名」や「個別性」を守ろうという方向があったような気がしますが、これはネットの中では有効な手法ではありません。いったん議論の対象になったものは360度あらゆる方向からチェックを受けてしまうのが必然で、それを防ぐすべはないし、制限するべきではないと思います。

となると、議論の方向でなく議論の範囲を制限することが必要で、結局、アーレントの「公的領域」「私的領域」という考え方に行きつくのではないかと私は思います。