防御壁の流動化にまつわるアンチパターン
魂の労働―ネオリベラリズムの権力論を読んで、「こりゃドラッカーの暗黒面だなあ」と思った。
ドラッカーのテクノロジストという概念は、知識労働とかアイテーとか言う前に、「働くことはつらいこと」という固定観念をゼロクリアしろという主張であるとも読みとれる。そこが新しいソフトウエア開発手法とかの、アジャイルな手法とうまくつながっていて、ソフト開発者にとってしっくり来るものだ。
しかし、自律的、自発的な労働っていう考え方を逆手にとって、それを管理側が強制すると、非常におっかないことになるというのが、「魂の労働」のメインテーマのひとつだ。「自発性の強制」って言うのも変な話だが、それは空理空論ではなくて、福祉関係の人が「給料が安い」と文句を言ったら「おまえには福祉の心が足りない」と説得された等という現場の声が出ている。
介護労働を構成する精神的ケアの側面こそが、有償の介護労働を他の賃労働から区別し、しばしばそれは「やる気」を引きおこすインセンティブとして低賃金を正当化する機能を果たすのである。しかもそれはしばしば恫喝的でさえある(「魂の労働」P28)
つまり、「労働は苦役」→「誰だって本音ではイヤイヤ働いている」→「目を離せば労働者は怠ける」→「管理をギチギチに」という固定観念が崩れていくと、プログラマーは仕事は楽になるが、それで困ってしまう人も一方ではいるということだ。「怠けたがる労働者」が仕事をサボったとしても、給料がもらえないだけで、そのことを倫理的に非難されることはない。しかし、「やりがいのある充実した仕事(であるはずの崇高な仕事)」を与えられた労働者がサボった場合、給料がもらえない上に、「人間として最低」みたいな、ひどい悪口を言われてしまうことになる。
渋谷望さんもドラッカーも、福祉やNGOのような、単なる利益追求の企業で無い組織の管理のあり方に注目しているのだが、そこから出て来る結論が、少なくとも表面的には対照的なものになっていて、これはなかなか頭を悩ませる問題だ。
これを一般化すると、次のような図式になる。()内が例。
- ある制度が人間を疎外する(資本家による労働者の搾取)
- 人間を守る為に制度に対する防御壁として、別の制度や理論が構築される(労働者の権利の確立)
- 制度が流動化するが防御壁がそのまま残る(産業のポスト工業化)
- 取り残された防御壁が批判の対象となる(労働運動の形骸化)
- 防御壁による疎外された人間の分断化(ドラッカーVS渋谷望という仲間割れ)
ちょうどこれと同じような構図が、次の二つの記事に現れている。
具体的には「母体保護」を巡る問題としてこの分断は現れてくる。すなわち一方に「保護」を理由に「働かせてもらえない」人がおり、他方に「労働者」であることを理由に「休ませてもらえない」人がいるということ。
民族的少数派が、差別的な民族カテゴリーを否定しながら、その民族カテゴリーに依拠して運動とアイデンティティを展開せざるをえないこともそうだし、ひきこもりの人たちが、「降りる自由」と「参加する権利」を同時に達成していこうとするのも、似たようなことなのかもしれない。
それで、これら整理してみると次のようになる。
防御壁 | 防御壁によって縛られているもの | 防御壁の崩壊によって危機に面しているもの |
古典的(キリスト教的)労働観 | アジャイルできないプログラマ | 安月給で介護労働に携わる人たち |
母体の保護 | 保護を理由に働かせてもらえない妊婦 | 休ませてもらえない妊婦 |
民族的アイデンティティ | 「個を抑圧する機能をもちあわせていたこともまた事実であり」 | 「分節に依拠し内部の連帯を固めなければならない」 |
ひきこもりの人権 | 事実上見殺しに近いひきこもり放置への介入の困難さ | ニートに対する強制的労働 |
どれも、本来団結すべき弱者やその支援者が仲間割れして対立してしまうという話である。そして、これら全てについて、混乱によって得している人がいそうだ。
ソフト業界では「アンチパターン」という概念があって、失敗につながる構図を整理して、今後の教訓として行こうとする。「防御壁の流動化にまつわるアンチパターン」として、知恵を融通しあうことはできないだろうか。