王手がかかってから逃げては米長玉と言わない
羽生がまだ四段の頃、NHK杯というテレビ将棋で実力者を次から次へとなぎ倒して勝ちあがり優勝したことがある。中でも一番印象に残っているのが、加藤九段に対して終盤に銀のタダ捨ての鬼手で勝った将棋だ。この時のテレビの解説者が米長九段で、饒舌な彼が、一瞬言葉を失なってしまうほど凄い手だった。と言うより、その米長九段の沈黙でその手の凄さを私は実感した。
その頃の米長九段の解説は見事だった。軽妙洒脱なしゃべりの中に、鋭い読みが含まれていて、難しい勝負所をわかりやすく解説してくれる。ジョークのセンスは当人が思うほどではないような気もするが、はずした冗談を言っても邪魔にならず、むしろちょうどよい息抜きになったのは、それだけしゃべりが充実していて中身が詰まっていたからだ。
それだけ綿密な解説が突然中断して、米長九段は素になって少年のように「すごいなあ」と言っていた。その手の素晴しさにひたすら感激して仕事を忘れていたのだ。しかし、それによって、その手の凄さとそれを指した羽生という若い棋士の凄さが、ひしひしと伝わってきた。その後、羽生はほぼ一本調子に勝ち上がり七冠を取ったが、その瞬間の米長を見た人は、それも当然のことだと思ったかもしれない。
当時は既に米長九段は第一人者とは言えなかったが、棋士として人間として充実していた。語るものがあふれだしていた。
しかし、昨日のNHK杯で米長九段が解説したのだが、今の彼から一切そういうものが感じられなかった。現役を離れて手が読めないのは仕方ないのかもしれないが、それを補うものが何もなかった。将棋のことを話しても、将棋以外のことを話しても以前の輝きがない。
「王手がかかってから逃げては米長玉と言わない」と米長九段は昨日言っていた。米長玉とは彼が得意にしていた戦法のひとつで、普通の玉の位置よりひとつ横にそれた位置に玉を置く作戦だ。そこに玉を動かすのは誰でもできるが、いつ動かすかが「米長玉」の本質で、そこに矢が飛んでくる一瞬だけ前に、早すぎることもなく遅すぎることもなく、戦場を一歩だけ避けなくてはいけない。
しかし、最近彼は、あまり意味のないことで無駄に的になってしまっている。将棋以外に口を出すのはかまわないんだけど、昔のフットワークの軽さ、確かな大局観はどこへ行ってしまったのか。もう、彼には王手がかかってると思う。あまりの筋の悪さが、ちょっと悲しい。