異文化を排除すると異物が実体化する

島田紳助が吉本興業の女性社員に暴力をふるった時、彼は恐怖を感じていたと思う。あれだけ計算高く頭のいい人がトラブルを起こすのだから、それなりの理由があったのだろう。それをちょっと想像してみた。

おそらく、最初に言葉使いを注意する時には、彼は単に怒ってみせただけだったのだろう。その時には自分を見失っておらず、自分を制御した上で怒ってみせた。しかしそれに対する女性社員の意外な反応によって、彼は自分を見失ってしまった。

つまり、大物タレントであり、吉本の中でもかなりの影響力を持つはずの島田紳助が怒っていたら、彼の回りにいる人たちは、その怒りの是非は問わず、少なくともとりあえず恐縮してみせる。「恐縮」とはよくできた言葉で「恐れ」「縮む」と書く。島田紳助は最初の制御された怒りによって、女性社員が恐縮してみせることを期待していたのだ。

もちろん、それが常にどこでも通じるとは限らないが、彼女が吉本の社員であると聞いて、同じ吉本の内部にいる自分と彼女の間でなら、そのコミュニケーションが成り立つはずだと思ったに違いない。

ところが、彼女は自分のテリトリーを「縮める」ことはしなかった。このことが島田紳助に衝撃を与えたのだと思う。「恐縮する」という所作は、特定の文化の中で学習していなければできない。帰国子女だというこの女性社員は、そういう身振りを習う機会がなかったのだろう。

それは単に学習機会の不足なのだが、島田紳助は、「大物タレントの怒り」に対して「恐縮」しない人を目の前にして、しかも、そういう人間が吉本興業、すなわち自分のテリトリーの内部に侵入していることについて、非常に恐怖を覚えた。異物の侵入に対する恐怖で、彼は自分を見失い、暴力をふるったのだと私は想像する。

しかし、このような異文化の人が吉本の社員にいることが面白い。「社員は別の番組に出演していたコラムニストに付き添って来ていた」とあるが、こういうタイプの人を置くことで、「コラムニスト」のようなタレントとの交渉は、よりスムーズに行くという企業としての判断があるのではないだろうか。所属タレント、すなわち商品を多角化するという意味で、企業として、それは評価に値する姿勢だと思う。

だが、そのような吉本興業の変貌は、一方で島田紳助のような、芸能界の古い倫理観を重視するタレントにはストレスになるのかもしれない。今回の件が単発で突発的に起きたというより、自分の回りで起きているこのような変化の兆しが、累積的に彼にストレスを与えていて、それが、今回の極端なケースで爆発したのだろう。

このような異文化に晒されるストレスは、彼一人の問題ではない。異文化に恐怖で反応し暴力で対応しようとする人は、世界中にたくさんいる。しかし、それに対し、異文化の人は告訴という対決姿勢で対応し、そのスキャンダルは島田紳助吉本興業にダメージを与えた。

吉本興業は、「異文化の人はやはり扱いにくい」という思いを強くし、異文化というより異物であったと考えるかもしれない。この女性社員が所属していたセクションは、全体として仕事がやりにくくなると思われる。もし、これによって吉本興業多角化政策が頓挫したら、その影響は広範囲かつ長期に及ぶ可能性もある。

しかし、異文化が最初から異物であったというのは間違いだ。「異文化を排除するとそれが異物として実体化する」と言うべきだ。そういう反応を引き出してしまったのは、異物に対する恐怖とそれによって生まれた暴力である。

異物の存在は、自分に対するチャレンジである。異物と対話する為には、頭とこころを両方フルに使う必要がある。恐怖を感じ暴力で反応したら負けだ。逆に相手に同一化しても負けだ。自分と異物は違うのだから、異物を全面的に認め相手に同一化して自分を排除しても、それは最終的には同じように恐怖と暴力につながるから、やはり負けだ。相手との違いを認め、相手の存在と自分の存在を共に認めた上で、言うべきことは言い、注意すべきことは注意するという対話ができてはじめて、勝利である。難しいけどチャレンジしがいのある面白いゲームだと思う。