せめぎあう場所としての「わたし」

これはいい文章だと思う。私の思う所とほとんど同じです。


誰もが本質的には雑種的な、混血した存在なのです。混淆した、無数のアイデンティティの決定的にせめぎあう場所として、「わたし」はある。ぼくのなかには無数の言葉と、記憶と、身振りと、声と、歌とが、それぞれにぼくを成り立たせながらたがいに対話し、せめぎあい、きしみながら、まぐわいあっている。

そのような「せめぎあう場所」であるはずの「わたし」のうち何人かの「わたし」が、自然な本性のように自分の所属する場所として国のことを思うのは何故なのか。「せめぎあう場所」にあらわれるその統一感は何なのか?

それはイデオロギーによる教育の結果だとjounoさんは言う。


イデオロギーはわたしたちを教育し、それがお仕着せのアイデンティティであることを、感覚のレベルではけっして見えないようにすることが出来るのです。

そのアイデンティを「自然に感じること」は、それが生まれ持った自然なものであることの証拠にはならない。「自然に感じるように」教育された結果かもしれない。いやむしろ、「自然に感じる」ということ、つまり葛藤の無さこそが、教育の証拠である。

もちろん、だからと言って、愛国心を持つことが絶対に悪いことではない。自分が受けたそのような教育の影響を自分の中から掘りおこし、再度、それを自分で選んで、自分のものにするということはあり得る。

ただ、そのように獲得しなおした愛国心は、「自然なもの」として知らないうちに押しつけられた無邪気な愛国心とは違う。そこには、矛盾や葛藤がつきまとう。


この矛盾をぎりぎりまで自己の中でごまかさずに、決着をつけようと努力すること、内的対話を、葛藤を忌避しないということであって、そのうえであることを選ぶ、ということと、はなから抑圧してしまうのとは、まったく違うことです。

無邪気な愛国心をそのまま保持している人が、心の中に矛盾や葛藤を持っていなければ問題はないけど、実際には、意識化されないまま矛盾や葛藤をかかえている。それは、せめぎあう場所である「わたし」に、単一のアイデンティティを押しつけられた経験から生じる、不可避の葛藤であって、その傷は他者に対する攻撃性になる。

嫌韓反日が問題なのは、「嫌」や「反」が、究極的には抑圧された自分の一部に向かっているからだ。「嫌」や「反」という声をあげると、そのことで抑圧された自分が傷ついてしまうからだ。そして、その傷がうずくことで、「嫌」や「反」という声はより大きくなる。

この自己増植的な作用があるから、この手のパワーは政治的に利用しやすい。

「混血、雑種、移民、難民、亡命者、国際結婚者を抑圧するような議論」はこうしてうまれるのではないか。

そしてこれは、左翼の人が想像する「日本の戦争」の次の文章にもつながるような気がする。


右の人は「戦争をしかけられる」(北朝鮮とかね)恐怖を煽るが、左の人は「戦争をしかける」恐怖を煽る。

恐怖を煽り、その恐怖の対象に対して「嫌」や「反」を訴えるような議論はやはり暴力的だと思う。そこには「せめぎあう場所としての『わたし』」という視点がやはりない。加野瀬さんは、例えばテロのような現実的な視点が欠けていると批判されているが、現実のある側面に目をつぶるのは、自分の中のある側面に目をつぶってしまうからだ。


ほんらい「わたし」であるということは、到来するものたちのせめぎあいとしてしかない

jounoさんがこう表現する「わたし」という視点が無い反戦運動は、宿命的に非現実的で暴力的になってしまうと私は思う。


そしてこのような対話の肯定こそ、異質なものへのむきあいの前提になるのではないでしょうか。

内面の対話(せめぎあい)に気づくことが、「異質なものへのむきあい」つまり外部との対話に必要だという意見で、これには全く同感だ。そして、この文は、内面に向かうものに「対話」、外に向かうものに「むきあい」という言葉が割りあてられていて、普通の反対になっている所が面白い。

(補足: なお、jounoさんの文章には、反戦運動の批判は含まれておらず、「そこにつながりがある」というのは私自身の考えです)