ひきこもりの支援はとてつもない激務


とにかくひきこもりの支援は、現状ではとてつもない激務になっている。 → まったく現場事情を知らないかたは想像しにくいと思うが、良心的で情熱的なスタッフが次々と「燃え尽き」でリタイアしたり(そういう場合、「もう引きこもりの≪ひ≫の字も聞きたくない」というぐらい激しい拒絶感情を持ちやすいらしいが、わかる…)、僕の身近でも、たった1件の相談を引き受けた人が2週間でギブアップした。ある団体の代表は、40代で亡くなってしまった。


≪ひきこもり≫というテーマが、当事者ばかりでなく支援者の心身をもこれほど蝕んでしまう、その「きつさ」について、一回ちゃんと考えるべきではないか。

こういうことが、ある程度、客観的なデータとして確認できるのであれば、どんどん公的資金をつぎこむべきだと思う。それはごく普通の発想だ。しかし、「弱者」の中でこれほど票につながらないテーマはないのではないか。そこにひきこもり問題の鍵があるような気がする。

つまり、「弱者」に金を使うということは、「ちょっとした偶然で自分もそうなるかもしれない」という想像力を要請する。交通事故や病気であれば、そういう可能性を考えることに抵抗はない。しかし、「自分がひきこもりになるかもしれない」と想像することを一切拒否する人が多い。

だいたい、人の迷惑をかけるのだってエネルギーを必要とする。「2週間でギブアップさせる」だけのエネルギーは相当なものだ。何十万人というひきこもりが全てそういう特別なエネルギーの持ち主だとは考えにくい。

だから、ひきこもりは「負の元気玉」なのではないかと思う。「自分がひきこもりになるかもしれない」という想像を拒否する力にはエネルギーがある。そのエネルギーをあちこちから少しづつ集めて、人はひきこもるのだ。たくさんの人のエネルギーに少数か一人で対処する必要があるから、ひきこもり支援は激務になるのではないか。

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