ぱど厨とは団塊三世?

読冊日記の、一連のぱど厨レポートを読んで、なんとも言えない気持ち悪さを感じた。たぶんこれは単純な問題ではない。すごく複合的な要因があって、簡単に見える所では、ケータイメール文化とインターネットの中でのこれまでの慣習とのギャップという要素も大きいと思う。しかし、それだけにおさまらないものがあるように感じていた。

その漠然とした疑問が香雪ジャーナルのこの言葉で氷解した気がする。


三者である閲覧者がそのやりとりを眺めている、ということがなかなか想像がつかない。それ以上に、そんなことはどうでもいいと思っているようなのだ。相手と自分にさえ通じればそれで良い、と。

ぱど厨の大きな特色である「お互いに相手の掲示板に書き込むことによって会話を交わす」というコミュニケーションのスタイルの起源を、楽天広場に求めて、それが、「貸し借りを作らないように」した「普通の社会生活の延長線」であると分析した上での、コメントだ。これが、ピンポイントで私が気持ち悪さを感じる部分を抜き出している。

一対一のコミュニケーションでも、メールとこれは全く違う。メールは、第三者の存在を感じているから、第三者の目に触れない形で言葉をやりとりするのだ。

三者、つまり社会の目を(自分の損得が関わらない限り)無視するというこの感覚が、私にはとても不気味に見える所で、どうしても団塊世代を連想してしまう。

団塊も三世となれば、世代が一様に分布しているわけではないので、ぱど厨=団塊三世というのは単純な世代論としては無理があるけど、もうちょっと広い意味で、行動様式、世界認識の体系として、彼らは団塊世代負の遺産を引きついでいるんじゃないだろうか。

(追記)

前に書いたコインパーキング踏み倒し常習犯という話が、自分の中ではこれとつながる。マナー違反とか社会性の欠如とか無知とかで8割くらいは説明つくんだけど、それだけでは割り切れない所があって、どちらも「想像力の無さ、危機感の無さ」みたいな所に、不気味さを感じる。