はやくスペックくれよ〜チンチン

これは、Winnyが要請する知のバトルロワイヤルの続きです。というか、このタイトルが自分ですごく気にいったので、蛇足的な説明をつけてみようかと。

これまでも、いわゆる学際的な議論っていうのはたくさんあったのだと思います。たまたま目についた所を二つ紹介したいと思います。

ひとつは、「経済倫理学のすすめ―「感情」から「勘定」へ」という本。これは、先日紹介した趣味の経済学というサイトの接待汚職の経済学という記事から、「経済倫理学」というキーワードをひろって見つけたものです。アマゾンでは


倫理問題につきものの"感情"を"勘定"に置き換え、人々の損失と不満を少なくするような、無難な答えを見出すことを試みる。

と紹介されています。つまり、経済学の枠組みを拡張して倫理学を統合しようという試みであるようです。

この本の内容が、大阪市立大学法哲学ゼミというサイトの中のこのレジュメで、やや批判的なスタンスで紹介されています。


倫理問題を解決するということは、どのようなシステムを使うにしても、そこにいかなるルールを確立していくのかということが重要なのであるから、最初に議論されることは、ルールの根底にある「正義」についてではないか。(中ほどの「論点(というよりは谷川の結論)」という所から引用)

つまり、「市場」という概念で倫理と経済を統合しようという試みに対して、「市場」はルールが無いと成りたたないから、その「ルール」の基盤となる「正義」の方が根源的であるという批判です。「経済も倫理の中のひとつのバリエーションにすぎない」と言っているわけです。

もうひとつは、くりりんさんのコメントからたどった、脱領域の知性としての社会学という文章。これは、私が提示している問題、Winnyが関連する多数の知の枠組みを統合することが必要だ、という問題に対して答えるのが社会学という学問の意義であると言っているようにも思えます。あえて誤読すると「社会学が社会科学を統合する文系の王様である」となります。

しかし一方で、反社会学講座 第1回 なぜ社会学はだめなのかという文章では、(半分ふざけてのことだと思いますが)、まさにそういう「脱領域」的な部分を、社会学という学問の根本的な欠陥であるように言っています。王様どころか問題児という扱いです。

このような学際的な問題提起は物議をかもすものですが、それは、そのような論議が「○○は××のサブセットである」というような言明を含むからだと思います。それに対して「××の方こそ○○のサブセットである」という反論がかえってきて、食うか食われるかの論争になるわけです。上の二つはほんの一例で、こういう論争は古今東西無数にあると思います。

それで、我々コンピュータ屋、システム屋がこの論争にどうからんでいるかと言うと、我々はただ「どうでもいいから、はやくスペックくれよ〜チンチン」と言うのです。スペックとは、プログラムの仕様書、つまり、プログラムの機能を書いた文書ですが、仕事でプログラムを組む時は、原則としてお客さんからこれをもらって、それに従って作るわけです(最近は、そうでないケースも多いですが)。

私は、これまでWinnyに関して(見せかけの文系的教養をまぶした)意見をかなりたくさん書いていますが、プログラマとしての立場で言いたいのは、「はやくスペックくれよ」という、このひとことに集約されるわけです。Winnyのようなソフトウエアが法的に、あるいは倫理的に許容されないものだとしたら、これからネットワークに関するソフトウエアを書く場合、仕様書の中に、そのことがなんらかのソフトウエアが従うべき制約として含まれることになります。それが自分の信念とどう違ってようが、プログラマとしては、ただ制約事項を示してもらって、それを自分たちの使えるレベルに明確化していくことになります。

これが話をややこしくする、というか問題をヒートアップさせる。

普通、文系の人は、食うか食われるかのつきつめた議論をあまりしない。議論をしても、プロレス的な予定調和的無効試合が見えている。どっちが勝ったかは、なかなか明確になりません。お互いがマイクパフォーマンスで「今度はでかいカンオケ用意しておけよ」などと、威勢のいいことを言いあってるだけ。

プロレスならば、それでおおいに観客席を沸かせればすむ話ですが、そこにシステム屋がいたら、そうはいかない。「この仕様書のここが不明確ですね」とあちこちつつき回す。別に、システム屋は「長年の学際的な哲学論争に結着をつける」なんてつもりはなくて、ただ単に自分の仕事がしたいだけです。とは言っても、長年あいまいなクライアントに悩まされていて、その対処法はそれなりに心得ているんで、手練手管を使って、そこを明確にしていく。あいまいさを許しません。

プロレスに空気の読めないレフェリーがいて、対戦者が両方とも無効試合への流れを作っているのに、無粋にもノックアウトの完全結着に持ちこんでしまうようなものです。あいまいさの無い決定的な答えを求めるというのは、(次の試合がある)ノックアウト結着というより、「みなさんには殺し合いをしてもらいます」の世界、バトルロワイヤルを要請している。意図せずとも、そういう挑発を含んでしまうものだと思います。