圧倒的な非対称を解消するための「ファイル放流」

NetWindさんの 匿名性について議論をする前に。に書いてあることには、ほとんど私は同意します。


技術コードと法律コードの両方に正しい理解をもたなければならない点が、解にたどり着く過程を困難なものにするだろうが、僕たちの取り組み方次第だと思う。

私は、その「困難」の部分をもっと強調したいと思いますが、基本的にはほぼ同じ考えです。

それで悩んでしまうのが、なぜこれが私の記事に対する反論として書かれているのか、ということです。いろいろ考えてしまうことはありますが、ここではひとつだけ訂正しておきます。


高木氏やessaさんはまともな「市民」とまともでない「市民」を区別できると信じているようだ。

私は、それは区別できないと思っていて、それが「市民」とは何かを問い直す装置としてのインターネットを書いたひとつの理由です。

高木さんは、これらの元記事の続編の P2Pの価値とは何なのだろうかで、「ファイル放流」という概念を提示して、それとP2P全般や「データの拡散に人の意識が介在する」ファイル共有システムを分けて論じることを提案しています。

これは、技術者の社会的な責任として非常に重要な仕事のひとつだと思います。つまり、社会に大きなインパクトをもたらす技術について、その本質を解明していくことです。そういう意味で、この「放流」と「共有」の区別は重要です。「共有」は、社会との関わりについて本質的には新しさはなく、従来の規範を適用していけば自然に解決つく問題です。「放流」はそうではなくて、新たな合意を必要とする新しい問題です。それを区別することは重要です。もし、高木さんがいなかったら、私もまずは(とても高木さんほどは明解にできないと思いますが)同じことを試みると思います。

しかし、ここで私にはひとつの疑問が浮かんでしまうのです。「それを問いかける相手は誰なのか?」ということです。「『ファイル放流装置』には『ファイル共有装置』とは根本的に違う危険性があります」と技術者が言った時、「わかりました。では「ファイル放流装置」は法律で禁止しましょう」と答えるのは誰か?

それが「市民」だと思います。そして、私は「市民」という言葉がこのように使われる時に、どうしてもそこから排除されてしまう者の存在を考えてしまうのです。

法律は、「まともな市民」を対象にしていて、「まともな市民」を守るものであるが、そこから排除された者に対しては権力として作用するものである。そういう感覚が私にはあります。そして、「技術コードと法律コード」が直結してくるこういう問題では、そういう法律の持つ危険な側面が非常に表面化してくるような気がします。

人的システムを介して法律が運用される場合には、いろいろなあいまいさがあって、そこに関わる個人の人間的な判断を介在させる余地がある、だから、法律の危険な側面がやわらげられる可能性もあって、実際にそのようなバッファーがあちこちにあると思います。

しかし、「市民」が技術と直結した形で法律を使い出した場合、「市民」から排除されたものに対する圧迫は、破壊的なものになるのではないか。

何が排除されて何が圧迫を受けるのかということは、私には具体的なイメージはありません。ただ、漠然とした違和感を手がかりに言っています。中沢新一さんが圧倒的な非対称と名づけたものが、この「ファイル放流」の件につながっていると、根拠もなく直観だけでそう感じています。

強いて言葉にしてみれば、「圧倒的非対称を解消する手段として、テロよりは『ファイル放流』の方が、どちらにとってもマシである」ということになります。あるいは、「ネットには圧倒的な非対称を解消する可能性があるけど、『ファイル放流』を禁止するロジックの中には、その可能性を塞いでしまうものが含まれている」

「ファイル放流装置」は悪であるけど必要なものであるということを、もう少し具体的な形で示せないものか、これから考えてみようと思っています。