「市民」とは何かを問い直す装置としてのインターネット

市民の安全を深刻に害し得る装置としてのWinnyは大変優れた考察である。内容も優れているが、タイトルがその内容の見事な要約となっている。「市民」にとってWinnyとは何か、技術的な観点から「装置」として見ると、Winnyの本質は何なのか、そういう所が、非常に明解に分析されていると思う。

ただ逆に言うと、そのタイトルが、見事にこの考察、この観点から抜けおちてしまう所も表している。「市民」でない人にとってのWinnyとは何か、「装置」でなく社会システムとしてのWinnyの本質は何かということである。

私は、その抜け落ちた側面についてここに書いてみたのだが、これは高木さんのこの考察に対する批判ではなくて、むしろ、これがブレなく一つの観点から明確にWinnyを分析してあるために、私には、このような所が明解に見えてきたということである。

SMTPネットワークとWinnyのネットワーク

高木さんは、SMTPで通信し合う電子メール交換システム全体も、「peer to peerという意味で言うならば」Winnyのネットワークと本質的には同じであって、P2Pという側面では、Winnyが画期的な革新であるとは言えないとおっしゃっている。

WEBのようなサーバ・クライアント方式の方がむしろインターネットにおいては特殊な方法であって、peer to peer、つまり、各peerが対等に通信する方法の方が一般的で自然である、という点には私も同意する。また、そのような意味ではWinnyのネットワークは、インターネットの進化の流れの中では、全然異端児ではなくてごく自然な発展形であると思う。

ただし、電子メールのサーバのネットワークとWinnyのネットワークには、重要な違いがある。それは、管理者の性質、役割である。

メールサーバには、必ず管理者がいてそれをメンテナンスしている。大半はちゃんと自分が何をしているか理解した上で、サーバに必要な設定を行ない、問題が起きた時には、調査を行ない必要な対策をしている。中にはタコな管理者で意味もわからず本をまるうつしする者や、他のサーバに迷惑をかけてもしらん顔で、他のサーバから接続を止められて仕方なく動きだすような怠慢な管理者もいるが、そういうのは例外である。

SMTPというプロトコルや大半のメールサーバは、多少のうっかりミスでネットワークを麻痺させたりメールが消えたりするようにはできていない。むしろ、人間につきものの錯誤には寛容であると言える。

ただし、それは悪意ある人間の集団に耐えるような寛容さではない。サーバ間のネットワークの背後にいる管理者の集団が、相互の利害を調整した上で、全体として利他的に行動して、ミスをどんどんなくしていくということを期待している。そのような方向に管理者を誘導していく機能は、メールサーバにはない。

Winnyはそうではなくて、基本的にユーザの利他的な行動を期待していない。NATルータのポート番号の管理以外に、技術的な知識の学習も期待していない。ただ、貪欲にファイルを欲しがる素人が集まるだけで機能するように設計されている。

ソフト自身が勝手にネットワークを調整していくし、ユーザの利己的な動機から、結果として利他的な行動を引き出すような工夫がある(と私は想像している)。

だから、技術的な観点では、「管理者に過度の負担をかけない高度な自律性」という点で、従来のネットワークにない重要な成果があると思う。

また、Winnyは「装置」でなくて「人間系も含めた社会システム」として見ることも必要だと思う。(もちろん、「装置」としての分析が基礎になくてはそれは難しいことであるが)

環境管理型権力としてのWinny

それでは、Winnyは一切の強制無しに自律的な秩序を作りあげたのかというと、そうではない。利己を利他につなげる上で、重要なからくりがある。それは、ソフトの機能ではなくて、権力の構造として見るとその重要性がわかってくる。

そのからくりとは「ユーザからアップロードしない権利を奪う」ということである。単純なことだが、ダウンロードするユーザばかりになっては、Winnyは機能しない。アップロードするルートが一点になっては、Winnyの重要な側面である匿名性が失われてしまう。アップロードを強制することが必要である。

ユーザには、Winnyのネットワークに参加するかしないか選択する権利があるが、参加するという選択をした瞬間に、「アップロードしない」という自由意思を奪われる。これがWinnyがユーザに強制する唯一のことであって、これだけを引きかえに、Winnyは利己的な動機から自律的なネットワークを引き出したのである。

これは、買物の利便と引きかえに、書籍情報蓄積への奉仕を要求するamazonと同じ、「環境管理型権力」そのものである。あるいは史上最大規模のソーシャルハッキングである。

市民と市民以外の権力闘争

そして、そのように巧妙に奪われた権力が、「市民の安全を深刻に害する」性質を持っていることは否定できない。高木さんが言うように、興味半分にプライバシーに関わる映像等を流されたら、それは止めようがない。

チェーンメールでそれが行なわれた場合を想定してみればすぐわかるが、これは技術的な問題ではなく、背後に控える管理者の性質の違いである。メールサーバの管理者は、良識ある市民であって、そのような深刻なプライバシー侵害に関わるメールをフィルターする設定には大半が同意するだろう。

P2Pによるファイル共有装置に、そのようなフィルターを備えつけることは可能であって、各peerの管理者がそれに同意する良識ある市民であれば、それは破壊的な結果にはつながらない。

問題は、そのような抑止装置、安全装置のついたWinnyをみんなが使うかどうかであって、これは技術の問題ではなく、政治的な問題だと私は思う。

高木さんの考察を読めば、市民はWinnyの危険性を理解する。市民はWinnyを必要としない。良識ある市民は、良識ある技術者に安全装置をつけることを要請し、良識ある市民である技術者はそれに従って、Winnyの匿名性を管理できるように慎重に設計するだろう。

ところが、ネットワークに接続するのは「市民」ばかりではない。Winnyという壮大な実験が明かにしたのは、「市民」でない人の数とそのパワーである。

だから、これは「市民」と「市民以外」の権力闘争としての側面を持っていて、単なる技術論でもない、「こうあるべきだ」という規範、倫理の問題でもない。全員がハッピーになる道のない、権力闘争、戦争という側面を本質的に持っているのだと思う。

「市民以外」とは何か

それでは、Winnyによって脅威にさらされている「市民」以外に、誰がネットを使っているのか。

ひとつは、「市民」の裏の面だ。大変な労力によって創造されたコンテンツを正当な見返りなく搾取したいと思う者もいる。多くの者が匿名になれば平気でそれを実行する。その「市民」が裏に隠し持っている暗黒面の力がWinnyによって解放されたのである。

もうひとつは、「市民」によって抑圧された声。「市民」とは、ある種の合意の結果生まれた権力としての規範の総体であって、その合意の時に見放された人たちがいる。その人たちの押しつぶされた声が、常に出口を求めている。

「市民」への脅威を語る人の中には、この二つを意図的に混同して、前者の問題として「市民」の同意を得て、後者の問題に対処しようとする人がいる。


万が一何らかの権力構造の変化が起きたときなど、いざというときに完全な表現の自由を確保するため、そうしたアーキテクチャの実現可能性を探求する研究は重要であり、いつでも利用できる準備を整えておくことに意義はあるだろう。

高木さんは、このように後者の問題に目を閉ざしてはいない。

ただ、この二つの「脅威」の問題は、技術的に解決のつく問題ではないと思う。これには「全員ハッピーの解」はない。誰が貧乏くじを引くのかを意図的に選択しなくてはならない、政治の問題として解決するしかない問題である。

「48氏」

この「脅威」とは、管理できない匿名性である。この問題は、技術的には解決できないと私は思う。原理的に不可能ではないかもしれないが、少なくとも、その困難さは、これから増大することはあっても減少することはない。

47氏の特定の側面を継承する人、言わばまだ見ぬ「48氏」はあせる必要はないのだ。彼は、47氏ほど優秀なプログラマーではないかもしれないが、時間は一方的に彼に味方する。

パソコンは安くなり、容量は増えて回線は速くなる。技術は蓄積され、裾野のユーザは広がる。P2Pよりさらに画期的なアーキテクチャだって発明されるかもしれない。

例えば、ワームや環境管理型権力ソフトによって、たくさんのノードを確保しようとした時に、管理不十分なパソコンや、容易に餌につられる良識のないユーザを、48氏は何の苦労もなく大量にGETする。

啓蒙や管理によって、48氏の出現を遅らせることは可能だ。しかし、彼には47氏のように天才的なプログラミングテクニックでそれを破る必要はない。ただ、彼は時期が熟するのを待てばよい。より強大な「管理」は、非合法な流出名簿の裏世界での相場を押しあげ、「市民」に加われなかった人の怨嗟の声を鬱積させる。48氏はひたすらそれを待っていれば、大した苦労もなく環境管理型権力を作り、自らの目的の為にそれを使うことができる。

私は、47氏には法的な問題もないし、倫理的な問題も微妙であるが無いと考えている。それに同意しない人もいることは理解できる。しかし、まだ見ぬ48氏が、彼のように抑制的であることは期待できない、期待してはいけないのだということは断言できる。

合意形成のプロセスを作る

今、必要なことは、合意形成のプロセスをより開かれた形で再構築することである。それが、48氏の出現を防ぐ唯一の方法で、他の手段はない。そして、それは必然的に「パワーシフト」、権力構造の変化につながる。きれいごとですむ話ではない。

だが、それをして「市民」が本当の意味での「市民」にならない限り、排除された「市民でないもの」と「市民」は深刻な闘争を起こし、それを防ぐ手段はない。

技術者はWinnyの「安全装置」を設計することはできる。政治家は「安全装置」を義務化することはできる。しかし、その「安全装置」をバイパスしようとする48氏と、彼を支持する「市民でないもの」の力を無視することはできない。その力関係は既に非可逆的に変わってしまっているのであり、これまで「市民」が持っていた権力はもはや機能しない。

私は「市民でないもの」を全面的に肯定するべきだとは思わない。ただ、「市民でないもの」には二つの側面があって、それは明確に分離できないと思っている。そして、これまでは、その両面を一緒に抑制することができていたのだが、それは不可逆的に不可能になった。そのことを認識しないのが危険だと思う。

そして、その変化はWinny47氏が起こしたものではなく、インターネットが本質的に内在していた力が表面化したのだ。インターネットを使い続ける限り、あるpeerとpeerが特定の方法で対話することを止めることはできない。「市民の安全を深刻に害し得る装置」とはインターネットそのもののことであって、我々は次の二つのどちらかを選ばなくてはならない。

つまり、インターネットを放棄するか、新しい合意形成プロセスとともにそれを使い続けるか、そのどちらかである。