「中庸」としてのラジカリズム

レッシグが思ったよりパッとしない」というのは同感で、それを自覚してやっているというのもうすうすは気づいていた。これを読んで、彼が自分の頭の良さや見通しの良さを、全く自分自身の都合を考えない所で使っているなあ、という感じが明確に見えてきた。

だけど、彼がそれをするために、どれだけの感情をコントロールしているかがわからなかった。

47氏の逮捕を受けて、怒りを全部知恵に変えて一生懸命文章にして、自分にしてはかなりよく書けたんだけど、それでも全然怒りのエネルギーがおさまらない。というより、一日過ぎてからカンカンに頭に来てきた。

今自分が感じている怒りと馬鹿らしさを、レッシグは何年も前からずっとハッキリと感じていて、その感情を持ったまま「『中庸』としてのラジカリズム」を貫いているんだなあ。そう思うと、solarさんが言うとおり、それは凄くカッコいいことだと思えてきた。


レッシグのやってることだけを過大に評価したいわけではなくて、彼が自覚してやっているような立ち位置のとりかたを、日本でもいろんな問題について、もっと多くの専門家とか責任ある立場の人がとって欲しい、ということだ。

この言葉が重い。最後にある自分の文章へのリンクが嬉しくもあり苦しくもある。

やっぱり見なかったことにしちゃおうかな。