客観性と論理の失墜

東電OL殺害事件に関する分析のまとめ(From 磁石と重石の発見)


以上のように高裁判決には全く説得力がない。/
一審判決を覆すにあたり一審判決の論理構造を乗り越えようという気概も感じられない。/
高裁は、検察官が勾留してくれと言ったから勾留した、検察官が控訴をしたから有罪にした、ただそれだけという感じがする。/
私にとって驚きだったのは、「精液の経時変化」「バッグの付着物」といった客観証拠を調べもせずに有罪にしたこと。このようなことがまかり通るのであれば、有罪にしたいと思えば自由自在に有罪にできてしまう。

おはなしの作られ方


こうした「おはなしづくり」の強化、というかあらゆる語りのワイドショー化は、ずっと昔からあると言えばあるのだけど、なんだかとっても「客観性」に対する不信へ向けて作用しているような気がしてならない。


ロジカルな正しさじゃなくて、その人がどう思っているか、どう感じているかが問題で、その感性はデータによって反駁したりできるような性質のものじゃない、という感性は、素朴な感想の裏書きとしてしかデータが機能しないという事態を指向する。だから「ゲーム脳」にしてもそうだけど、データの正しさじゃなくて、データの納得性こそが言説の強さになって跳ね返ってくる。

偉い人もそうでない人もなんか同じような方向に向かってるなあ。