第三者の不在
それは〈個〉を認定しない関係に於いてはそれは直ちに、承認してやる/されたいというシーソーゲーム、恣意的強弱の二者関係に陥るからである。
難しいことを簡単に説明する能力が私にもっとあったならば、これらをわかりやすく要約してみせたいと思うのですが、そう思ってしばらく考えてみたのですが、やっぱ無理でした。そこで、しょうがなく引用とリンクだけにします。
これらの文章で述べられていることはすごく重要なことだと思います。
論理や客観性というのは、ひとつの権力構造を産む仕掛けでもあるので無条件に信頼できるものではないですが、ここにあるようような危険性に対する歯止めの役割はあったと思うのです。それが溶解していくことで、「恣意的強弱の二者関係」原理主義が跋扈することにつながってしまうのではないかと思います。
しかし、無痛で生き腐れになるよりは、あらゆる人間関係において差別と暴力が立ち現われてきて、ジタバタせざるを得ないこの国の仕組みの方がまだましだと、「言論ヒエラルキー上位組」のワタクシは思うのであります。
ジョバンニのように「みんなのほんとうのさいわい」を真摯に求める者にとってこの国は、まるで大リーグボール養成ギブスのような環境ではないでしょうか。
ちなみに、痴漢という現象は、日本人論をやる上ではずせないポイントだと思うということは昔から思っていました。