中高年の暴力
無事の記を「森達也」で検索してその前後を見ると、非常に考えさせられる話に出逢うことができます。例えば9/19に所で紹介されている森さんの見解。
その憎しみの感情を共有しない人間は等しく非人間的であり、宅間と同罪のようなものだ、という強制的な雰囲気が蔓延している。ある視聴者はアンケートに答えて「宅間被告のDNAを根絶やしにするべきだ」とまで言った。あるニュース番組は一視聴者のその見解を特に問題視することもなく紹介した。しかし宅間のDNAを根絶やしにするということは、常識的に判断すれば、彼の一族郎党を全て皆殺しにしろという意味だろう。
/ 何故そうなるのか。反省や吟味もなく過剰な暴力への情念がほとばしるのか。それこそ、世界はくだらないといい世界を矮小化しようとする宅間の思う壺ではないか。その時彼は、世間の憎悪や非難や怒号の中で、やはり自分は正しかったのだという確信と絶望の中で、安んじて死ぬことが出来るだろう。
「一族郎党を全て皆殺しにしろ」というテレビ局や視聴者は暴力的だと思います。日本にはこの種類の暴力があふれているように思います。ハッキリ言えば、かなり多くの中高年は潜在的にこのような暴力の種を持っているような気がします。進学をめぐる口論で中学生の孫を射殺という事件は、それが現実化したものであって、猟銃が手元にあれば同じことをしてしまう中高年はたくさんいると思います。中高年は、ちょっとしたことでキレて何をするかわからないから恐い。
http://news5.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1069686289/542 より
結局祖父が勧めた進路はあの世ということだったのか…。悲しいな。
若者の進路を暴力的に強制しようとする中高年は他にもたくさんいるわけで。
ゲーム脳や未成年の犯罪をめぐる非論理的な主張の多くは、中高年が持っているこの種の暴力性の投影ではないでしょうか。また、我々の国家財政が危機に瀕しているのも、この暴力のひとつの結果であると思います。暴発しない暴力が、国家に向い国家を痛めつけているんです。
11/23の「ザ・スクープ」では、警察が捜査費を組織的に流用して裏金にしているという報道をしていました。もちろん税金を流用されることは悲しいですが、私が嫌だなと思ったのはその使い道。主たる使い道は「遊興費」だと言います。いくらノー天気であっても、リスクをしょってこしらえたお金の使い道が「飲み食い」ですよ。自分の肝臓を暴力的に痛めつけて喜んでいるとしか思えない。どうせ流用するなら、しゃれた背広を買ったり、バイオノート505エクストリームくらい買って、贅沢らしい贅沢をして欲しい。「遊興費」でしか遊べない貧しさを見ると、「何のための着服だ!」と言いたくなります。
まだ読んでないのですが、若者が『社会的弱者』に転落するという本があるそうです(ネタ元 \ay diary)。そうなるのも当然という気がする。若者は優しすぎるんです。おそらく私のこの暴論を読んでも、この暴論の中に潜む暴力性を先に感じてしまうのではないか。いくら多くの中高年にそういう傾向があるからと言って、こういうふうに一括してくくるのはそれもまた一種の暴力でしょう。
それをじれったいと感じる自分と、それに共感して暴力を超越したいと思う自分が両方いて、その分裂をここにぶつける悩み多き40代なのです、私は。