オープンソース的コラボレーションが社会を変える

梅田さんの昨日のこの記事も非常に重要なものだと思いますが、プログラム以外で共同作業することの何が革新的かを考えた時、単に掲示板やメーリングリストで議論することではなくて、「教養を共有しない人たちの協同作業」と位置づけると、その本質が見えてくると思います。

知識=コンテンツがあまりにも多様化して、量が増えたことで、みんながバラバラに自分の世界に閉じこもってしまう危険性があります。東裕紀さんが「データベース的」と呼ぶ、一種の頽廃に陥いる可能性もあって、それはひとつの危機でもあるわけですが、「オープンソース的コラボレーション」というさまざまな動きの中には、この危機を乗りこえる力が芽生えているような気がします。

それが「オープンソース」という名前のもうひとつのサブカルチャーにならない為には、ある種の基盤を欠いても機能するものを持っていなくてはなりません。そうでないと、これからより極端になる情報の拡散の中で、解体してしまうでしょう。

梅田さんの記事ではその核を「結果だけでなく過程を共有する」ことに求めていて、私はそれを「教養に代わるもの」と呼びます。おそらくどちらもひとつのヒントにはなっても、懐疑的な人に対しては充分な説得力を持たないし、何かが欠けている。

プログラムは「オープンソース的なもの」の中ではある意味特殊なものです。ソース(リポジトリ)という物理的な基盤があるので、その「何か」を欠いてもこのプロセスが一応機能するのです。非常にラッキーなものであって、だからこそ最初に広まったのでしょう。これに相当する基盤が無ければ、「オープンソース的コラボレーション」は掲示板でみんながワーワー騒いでいるだけのものになってしまうでしょう。

そこには足りないものがあって、我々はまだそれをきちっと概念にできないのですが、その何かは確かに生まれつつあると私は思います。

なお、私が前に書いていたページでは、「オープンソース」という言葉を全部索引にしてあります。ここをたどると(一部ノイズもありますが)、これに関する断片的な思考のあとが見えると思います。その中で言及している「プリウスソースコードを公開せよ!」という記事はリンク切れになっていますが、こちらに残っています。