創発する四書五経

梅田さんのアマゾンの実験に需要サイドからのイノベーションを考えるで、私の書いた書籍検索とオープンコースウエアのない言語は滅びるをリンクしていただきました。もちろん、こんな素晴しいBLOGからリンクされたら、どんなくだらないネタでもうれしいですが、この記事は自分では今年一番いいことを言ってると思っていたのにあまり話題にされてなかった気がするので、特にうれしいです。というか、(生意気で自慢気な言い方ですが)こういう所を見逃さないとはさすが梅田さんだと思います。

そして、その記事も素晴しい。これについて考えてみました。

梅田さんがこの記事で強調しているのは、インターネットの普及により「コンテンツの価値」そのものより「コンテンツを活用することで創造される別の価値」が大きくなる、そこから発生する「需要サイドからのイノベーション」が重要になるということです。自社の内部に囲いこんで価値を創造するIBMやHPより、グーグル、アマゾン、eBayのような価値創造のモトネタを提供する企業に成長の可能性があるということだと思います。

これを私なりに抽象的に考えると、創造のプロセスの中の知の流通に歴史的な変化が生じているということになります。

昔、中国では科挙と言って四書五経という特定の書物を勉強したかどうかをチェックする試験があって、これにパスした人が知的エリートになったわけです。そういう人の間では、そこに出てくる概念は全て共有されていて、四書五経は考えるためのベースでありコミュニケーションのツールであった。例えば「あのダメ社長は森だけど、うちには小泉がいないねえ」と言えば、「森」や「小泉」という言葉は固有名詞でなくて、特定の概念を表わす一般名詞として使われているわけです。四書五経にはこういう固有名詞がノウハウや教訓とともにいっぱい詰まっていて、うまく使えば、考えるにも話すにも効率的なわけです。その基盤を共有してない人は、どれだけ優秀であっても組織の中で仕事ができない。

こういうのが教養と呼ばれるもので、もちろん、その中身はどんどん変わり膨らみ多様化していったわけですが、一定の固定的な体系化された知識を共有することが、組織の構成員が一定の同じ知識を共有することが必須であるという常識は変化していませんでした。

科挙」の試験項目は変わったけど、知的な創造は「科挙」に通った人を囲いこんで行なうものだという常識は同じだったわけです。


研究開発費を三社で比べて、デルが圧倒的に少ないことを論拠に、フィオリーナはデルのことを「偉大な会社だが、芸が一つしかないポニー(馬)」だと言う。イノベーション可能性は研究開発費をたくさん投じているIBMやHPの側にあるという論理。

囲いこんだ中にお金を突っこめば価値が出て来るというこの考え方は、この常識から来ています。ここが変化しているわけです。

現代の四書五経はネットそのものです。いかなる意味でも体系化され得ない、ダイナミックな知の創造のためのソースが存在するのです。本質的な「教養」の終焉だと思います。

例えば、「私は仙水に似ている」とか「私は張良になりたい」とか「私はクリステンセンを尊敬する」とか言った時に、全ての人がその全ての固有名詞の意味を知っていることは期待できない。しかし、全ての単語にGoogleの検索へのリンクをはって、その時点で最低限の意味を共有することはできます。

囲いこまれた知的エリートが教養を共有することで生じた、生産性の向上、価値の創造というのは確かにあったと思います。それが機能しなくなってきて、その代わりに、ネット+αが四書五経の代わりとなって、それをベースに新しい形で価値が生まれつつある。

もちろん、ネット単独ではその教養の代わりとしての機能は果たせない。何かが不足しています。アマゾンやGoogleはその不足の+αの部分を補う企業なのだと思います。でも、まだまだ+αの部分は不足している。これから続々その部分をサービスする企業が生まれてくるでしょう。それが「需要サイドからのイノベーション」であり、そこにビジネス・チャンスがあるのです。