私は教えてない!

甲野善紀の随感録 9月2日 その2に、末績選手の銅メダルの関係で甲野氏に取材が来ることへの不満が書かれている。末績選手の独特の走法の元ネタ(のひとつ)に甲野氏の理論があるのは確かだが、直接教えたわけではないのに、功労者扱いされることが不満のようだ。そういう事実を確認しないで取材してくるマスコミに対するいらだちもあるみたいである。

こういう時に、直接教えた師匠であっても「いや私は何もしてないんです。本人の頑張りです」などと謙遜するのが一種の作法になっていて、いくら甲野氏が末績選手とのつながりを否定しても、単にその作法として受け取られてしまうことにも、問題があるのだろう。そういう空虚な作法がしみついたマスコミと、意味のない作法を本能的に受けつけない甲野氏のくい違いは大きい。

だが、もう一歩踏みこんで見ると、この問題には甲野氏の理論の中核と関連する重要なポイントが含まれている。直接指導しているサッカー選手だったらどうかと自問して、次のように言っている。


それでもそのアイディアをサッカー場で実現するのは本人であって私ではないから「私が教えた」という表現はあまり好きではない。

よいアイディアは常に動的なもので、静的な概念にはおさまらない。そして、社会的に認知される「人格」という概念はあまりにも静的すぎるのだ。「私が教えた」と言った瞬間に、「教えたもの」が静的な閉じた概念になってしまうのが、いやなのだと思う。

動的なプロセスは教えることはできない。プロセスに巻きこむことしかできない。そういうことを扱う人は、みな言い方に苦労している。Linuxは製品ではないと言っている Ian Murdock もそうかもしれない。