東浩紀の使い方

ようやく東浩紀を読みはじめた。ネット上の文章を見て感じていた違和感がますます強くなる。基本的には言ってることがすごくよく納得できるのだが、何かが違うと感じる。そして突然、その理由に気がついた。

わかってみれば実に単純な話で、この人、俺より10才若いのだ。10年後に生まれた分だけ、俺より切実にその問題に悩んでいる。その問題とは、彼が難しい言葉でぐちゃぐちゃ言っているその問題だ。読んでいる俺より書いている人の方が切実だと思ったのが初めてなのだ。今までこういう経験がなかったので、俺は「何か違う」と感じていたのだ。

これまでこういう難しい本をそれなりにいろいろ読んだが、どの本でも良い本は書いてる奴より俺の方が切実に悩んでいた。お気楽モードで何か書いてたって、良質な思索は普遍的だから役に立つ。「おまえの悩みはこういうことだ」と言われてなるほどと思うことは数知れずあった。だが、切実さ勝負では、いかなる本の著者にも負けたことはない。彼が予見したり予言している問題は、彼より後に生まれた俺にとっては、目の前の切実な問題だったからだ。

もう少していねいに言うと、自分より年上の人でも個人としては切実に悩む人もいた。「ここまで悩むことはとてもできない」と思わせる人もいた。だが、それはその人個人の悩みだ。1対1なら負けるが、相手の回りの環境と自分の回りの環境で切実さを比較したらこちらの勝ちだ。

東浩紀の思索からは、本人の悩みより回りの環境の悲鳴が聞こえてくる。彼の同級生や友人や恋人や家族が悩んでいるのではなく、もう少し抽象的な「環境」が悩んでいる。切れ味が鋭くてそこになかなか気づかないが、自分自身を取りまく環境が生きている切実な問題について思索している。彼にとって思索することは遊びではないと思う。

それで悟ったのが、これは自分自身の問題でなく子供の問題を考える時に役に立つ。一応テツガクなんですごく難しいのだが、その難しさが問題でないほど、子供たちは難しい状況を生きている。その状況について考えるために使うのが、東浩紀の正しい使い方だ。というか、東浩紀ラクラク論破できるくらいでないと、今の子供に説教なんてできない。