otsuneさんがおっしゃるように比喩というのは危険な武器である。俺なんか、この武器をむやみと振り回し無差別にあちこちに切りつける。テロリストか通り魔のようなものだ。
だがそんな俺でも、「クボヅカ」という単語を使わずに前項の内容を書けと言われたらとちょっと困る。最近この単語をたくさん使っているが、実際、クボヅカという概念は便利だ。窪塚洋介は身をもって、この有用なクボヅカという概念を世界に提供している。そのことだけでも偉い奴だと思う。こういう奴がもっと増えればいいと思う。
そこで突然だが、クボヅカと俺の共通点。
- 神との対話のような本を読んで書いてあることをまにうけてしまう
- 熟慮の量が一般人より少ない
- 頭髪の量も一般人より少ない
相異点。
- 俺には、今のところはまだ頭髪がある
- 彼における頭髪の不足は自発的な意思に基づくものだが、俺の場合は不可避な運命的な事情に由来する
他にもあるかもしれないが、残りは省略する。
実際、俺はクボヅカともジム・クラークとも連続性を感じている。俺のどこかのツマミをもっと極端な位置に回せばクボヅカになり、別のツマミを回せばジム・クラークになると思っている。なれるなれないではなく、同じカテゴリの中の量的な違いだと思っている。量的な違いは大きいとは思うが。
それで、クボヅカとジム・クラークを別カテゴリに入れられると困るのだ。中間にいる俺は、両者の間で引き裂かれて無になってしまう。俺にとってこれはアイデンティティにかかわる問題なのである。