おまえのような者は生きているジカクがない

安心社会から信頼社会へ思いやりのある人たちへをたてつづけに読んだ。俺が自覚無しにOSを使うことの危険性で言いたかったのはほぼこういうことだ。しかも、どちらもずっと明解だ。先にどちらかを読んでいればそこにリンクするだけで気がすんでいたと思う。

しかし、書いてしまったものは引っこめようがなく、3つ並べて考えるとやはり「自覚」という概念がキーになっているように俺には思える。

自覚的に安心社会を再構築することは無自覚に安心社会に拘泥するより害がない。小学校の道徳の時間で「私たちは信頼でなく相互監視の元で安心できる社会を目指しています。なぜなら、信頼は安心より高コストだからです」とか教育するのだ。きちんと安心がベターである理由を教わっていれば、いつ信頼社会にシフトするか決断しやすい。それまでは、安心社会を維持するためにイジメ等のコストを負担することにも同意が取りやすい。

また、シミンという概念には自覚の無さが含まれていると思うが、自覚的、確信犯的なシミンをシミンΩとでも呼ぶとしたら、シミンΩはシミンほどはた迷惑でないような気がする。シミンは自己完結的であるが、シミンΩは開かれているからだ。

しかし、自覚的な安心社会擁護教育やシミンΩは空想的だ。なぜ空想的に見えるかと言うと、現実のシミンや安心社会が自覚の無さを基盤として成りたっているからだ。あるいは「自分はこれこれを基盤としている」という自覚を拒否することに日本人の基本的な特質があって、それを目に見えるかたちで切り出したものがシミンや安心社会という概念だからだ。

安心社会に住むシミンに「おまえのような者は生きているシカクがない」と言われたら「おまえのような者は生きているジカクがない」と言いかえしてやろう。

そして、直接これとリンクしないが(してるかもしれないが)この手の良い文章はバースト的に連続発生するようで、都心生活者はなぜコミュニティ志向が高いのか真性団塊ジュニア世代も非常に興味深かったのでメモ。なお、後者の中で荘子の話が出てくるが、俺も老子的2CH論という文書を書いているので参考までに。