自覚なしに使えるコンピュータ

もちろん、こういう商売をしてこういう文章を書いていれば、コンピュータとは〜とかWindowsは〜と言いたいことはたくさんあるし、実際にたくさん書いてきた。しかし、「自覚無しに〜」に関して言えば、あの文章で文句を言っている相手は日本人である。マイクロソフトWindowsは比喩として使っているだけである。少くとも俺はそのつもりだった。

ところが「使う側が中身を知らなければならないというのは技術者の問題だ」という主旨の反論をotsuneさんSpiegelさんからいただいた。言った覚えの無いことに反論されて正直言ってとまどいを感じたのは事実だが、このお二人が同じことを言うというのは非常に重要なことに違いない。それに、吹いてないフレーズにカウンターメロディーを合わせるというのは、まるで最盛期のマイルスデイビスグループのようでかっこいいと思うので、これに再反論してみようと思う。

「技術者が考えてユーザが考えないで使えるものを提供する」ことが可能なのは、技術者がユーザ像を明確に規定できる時だけだ。それも、最も知識があって機能をしゃぶりつくすようなパワーユーザ像がまずあって、そこから減点方式でだんだんこのユーザを馬鹿にしていく。その仮想的なパワーユーザから限界まで知識技能を取りさって初心者ができる。例えばワープロ専用機には、このようなシーケンシャルな一連のユーザのイメージがあると思う。

しかし、ネットではパワーユーザより先に初心者がいる。初心者から加点方式でパワーユーザを作っていくしかない。これをやるとユーザがどの方向に進歩していくのか予想がつかない。シーケンシャルどころか多次元的、ホログラフィックなユーザのイメージしか持てない。のび太が常にドラエモンの想定外の行動を取ることには、何か本質的な意味があるのではないだろうか?

ネットは「技術者→ユーザ」というモデルが崩壊してしまう世界なのであって、「技術者=ユーザ」というオープンソースモデルにしか未来はないと思う。