片岡義男「日本語の外へ」

"I'm hungry" と言う言葉は「僕は腹へったけど君はどう?」という問いかけを暗黙に含んでいて、それについての両者の立場を明確にしようという方向性を持っている。相手のほうが腹へってなければ、我慢しておいて後で行くか、喫茶店のような食事も飲み物も注文できる所にするかといった、明示的な議論によって解決策に向けて前進していこうという意思を内在している。

一方「腹へった」と日本語で言う時、普通そこには主語がない。主語は「僕」ではなくて「場」である。「場」が空腹なのであり、そこにいる人は「場」に参加することを暗黙のうちに要請されている。これをしいて英訳すると"Be hungry!"というやはり主語がない表現になる。つまり「おまえも腹がへったという状態になれ」と命令されているのである。つまり、日本語はその場に人を閉じこめて永続化していく力を持っている。

片岡義男はIと「私」の違いを論じることからスタートし、このように日本語と英語の方向性を解き明かしていく。さらに、言語の構造が人にとってどれだけ重要なのかを論じ、日本人がこのような主語のない独特の日本語の世界にとらわれていることを意識させる。

この日記で、俺は一人称として「俺」を使うことを選択したが、それによって俺は暴走する自由を得たように感じている。つまり、俺は「私」である自分を切り落とし「俺」である自分を引き出すために、俺を「俺」と呼ぶこの文体を作り出して、この日記を書いている。

日本語の一人称が複数あるというのは、Iの訳語がたくさんあるという意味ではない。Iは状況によって一切変わらない、確固とした自分を意味しているのであって、「俺」「僕」「私」「手前ども」という一連の一人称は、状況によって変化する自分のある側面を表現する言葉は、Iとは全く別の言葉であると考えた方がよいだろう。

このように状況に応じて場に吸いこまれていく自分しかいないのが日本語の世界であって、何ごともIから始まるのが英語の世界。いいわるいでなく、その違いを認識することは重要だ。

ということで、これはものすごく重要な本なんだが、その凄さが少しは伝わっただろうか?