空気の読める人の革命

鈴木宗男の関連で逮捕された人たちを見ていると、何となくみんな「空気の読めない人」のような気がする。そもそも鈴木宗男自身が「空気の読めない人」っぽい。リクルート事件の江副もそうだったが、こういう事件ではだいたい突出した人が逮捕される。

突出してない空気の読める人は悪くなかったのか?と問えば、たぶん、その場の「空気」に引きずられただけで、逮捕するほど悪くはなかったのだろう。「空気」が変わればすぐに態度を改めるに違いない。

だが、逮捕によってその「空気」が変わるかと言えば、たぶん変わらない。逮捕されたのは、「空気の読めない人」であって「空気」にしてみれば「悪いのは俺じゃない、空気の読めないあいつがやりすぎただけだ」という感じで、反省の色は見えない。

要するに、突出している人を逮捕しても、突出してない人を逮捕しても、「空気」には痛くもかゆくもない。そのままだ。

アメリカで粉飾決算が流行っているが、むこうのそれは「空気」でなく「個人」が犯人だ。「個人」が頭よかったり権力があったりするとやっかいだろうが、とにかく「個人」を逮捕してさまえば再発防止になる。日本のように「空気」がボトムアップで悪いことをすることはないのでやりやすい。

組織の中で、「空気」を変えようと率先して訴える人もいただろうが、経験で言うとたいていそういう人も「空気の読めない人」であって、いくら正論を言っても、回りから浮いてしまい組織を変え「空気」を変えるほどの力はない。最終的に黙るか出ていくことになる。

だから「空気」を変えるには、「空気の読める人」に「空気」を批判してもらうしかない。「空気の読める人」でなければ、自分の組織の「空気」の何が本当の問題なのか、正確なことはわからないからだ。

結論を言えば、匿名で発言できる場がないと構造改革はできないのだよ。