妄想の中和剤としてのオープンソース

村上龍田口ランディと言えば、ネットをよく知り使いこなしている代表的な作家だが、面白いことにこの二人が対談で口をそろえて「ネットは事務連絡には便利だがそれ以外のことに使うと危険」というようなことを言っている(「存在の耐えがたきサルサ」)

田口ランディは「妄想の自家発電」という言葉を使って何かをほのめかしているのだが、二人ともその危険性をうまく言葉にできてない。

わかるような気もするが、俺はもうひとつ納得できなかった。いろいろ考えているうちに、この二人はネットのことはよく知っていても、オープンソースについては知らないことに気がついた。二人が見たことと違う結末がオープンソースにはありえる気がする。

オープンソースの中にも妄想の自家発電はあるが、妄想の中核にソフトウエアという中和剤みたいなものがある。いかに妄想が膨らんでいっても、ソフトを作る以上はとりあえずコンパイルを通さなきゃなんないし、コア吐かないようにデバッグしなきゃ話にならない。

ちょうど原子力発電のようなしくみで、ほっとくと中性子中性子を産んで爆発していく所に制御棒をつっこんで、あやうい所でバランスを取っているのだ。冷やす方に片寄ると妄想エネルギーが発生しないし、放置しておくと、妄想が妄想を産んで、その妄想が次の妄想を産んで、爆発してしまう。微妙なバランスが必要だが、適度な妄想と制御棒としての実際に動くブツがあれば、オープンソースのプロジェクトを安全に定常運転することは可能なのだ。

ネットが面白いのは妄想が核分裂を起こして、参加者が初期状態で持っている以上のエネルギーが自然発生するからである。だが、この妄想は必然的に暴走するものであるというのが、二人の作家が洞察したことだろう。確かに、そのことは常に意識してないと危ない。だが、ネットの外部からやってくる別のロジックがあれば、そのエネルギーを活用することは可能だと俺は思う。