ヒロスエ
源氏物語など読むと当時のナンパで重要なのは、相手の女性の名前を聞きだすことであったらしい。というか、名前を聞いたということがオチたという意味になるらしい。
よくわからんような話だが、現代でも例えば松浦亜弥という名前を聞いただけで勃起してしまう若者がたくさんいることを考えると、案外この伝統は継続しているのかもしれない。「あやや」なんぞという、ややそういう方面への訴求力が弱い愛称も、本名の威力を軽減しファンとして安定した日常生活を送るための必要性からつけられているのかもしれない。
ピンと来ない奴は、サンタフェのことを思い出せ。君は、単に若くて美しい女性のヌード写真に勃起したのか、「宮沢りえ」という名前に勃起したのかどっちなんだ?
そして、ヒロスエがヒロスエという名前に反応しない異国の地で映画をとってきたのは、そういう名前の呪力に安住したくないチャレンジ精神の現れだろう。
「WASABI?何それ?」
「ヒロスエが外人と出た映画」
という国でなく
「ヒロスエ?誰それ?」
「WASABIに出てた日本の若い女優」
という所で勝負したいということだ。
名前に呪力があるというのは文化の問題だから、必ずしもグローバリズムに迎合する必要はない。しかし、現代の日本では、何事も、あるコンテキストの中でしか通用しない価値評価に依存しすぎている。創造性を損なうとか言う以前に、その中でいろんなものが腐っていく。