人を鬱にする音楽と犯罪

20世紀になってから作曲家はドレミファソラシドを普通に使っちゃいかんことになったらしく、「現代音楽」というのは、だいたい一般人が「?」というものになっている。俺は、結構幅広くいろんなジャンルを聞く方だと思うのだが、さすがにあの類はちょっと苦手だ。

だが、「2001年宇宙の旅」の月のモノリス発見の場面で流れる曲(リゲティという人が作ったそうだ)を聞いた時は「なるほど」と思った。あれは、聞いているうちにどんどん鬱になって行く。確かに、普遍的に人間を動かすパワーがある。あの曲を聞くまでは、現代音楽なんてのは五線譜にでたらめを書くか、目茶苦茶に楽器をかきまわしていれば、それでいいのだ、くらいに思っていたのだが、あそこまで人間の不安感を煽るには、才能とかテクニックとか理論とかいろんなものが必要だと納得した。

それで、最近の犯罪がなぜ人を揺るがすのか、なぜ妙に人を不安にするのか考える上で、ああいう音楽はひとつの啓示を与えてくれる。つまり、昔の犯罪は例えば松本清張の世界みたいな貧困から発生する情念がベースになっていた。これは言わば演歌だな。あるいは、ロックの根本的なテーマである若者が体制に反抗するという物語。純粋に金銭的な動機の犯罪は、その冷たさからユーロビート(これはちょっと苦しいかも)。まあ、真似する気にはならなくてもだいたい動機はわかる。ドレミファソラシドの並べ方はいろいろあるが、大半の音楽がドレミファソラシドでできているのとおんなじで、大半の犯罪の動機の構成要素はおおよそ誰にでも想像がついた。

もちろん、全部が全部説明できるわけではなく、今も昔も電波な人はいた。電波な人は、誰もいない空間とおはなしするし、理解できないことをする。そういう人が犯罪を犯した時には、やはり動機を聞いてもわからない。ただ、このわからなさは今のように人々を不安にしなかった。これは、猫が弾くピアノと同じだと思う。デタラメではあるけど音楽ではない。そういう音を聞かされても、人はやかましいとは言うだろうが、不安になったり鬱になったりしない。

このように例えていくと、現代の犯罪はまさにリゲティだ。ドレミファソラシドが普通じゃないから、理解できないことは同じ。でも、それは素人のデタラメじゃなくて、ある種の独創性となんらかの精緻な構造を持っている。人々の心を揺るがす何かを持っている。一般人には決してできないことだ。嘘だと思うなら、自分で想像しうる限りの最も奇妙な犯罪を思い描いてください。それを実行に移したと仮定して、新聞の一面に載る自信ある?首尾よく一面にのったとして、その記事は現実に起きている犯罪のようにあそこまで人々を不安にできる?

で、さすがの俺も次の一節を書くのはためらうのだが、やっぱりこれはある種の表現であり、それができる人間は天才なんじゃないか?彼らが表現しているものにまっ正面から向きあうことが、こういう犯罪を抑止する最も効果的な方法ではないのだろうか?それが具体的になんなのかはわからないが、きっとそれはリゲティに「もう二度と作曲するな」というくらいの覚悟が必要なことだと思う。