「出しっぱなし」の害

普通、人間は外部と通信するための外向きのチャンネルと自分自身と通信するための内向きのチャンネルを持っている。たいていは両者をほぼ均等に使って生きている。外向きのチャンネルをほとんど使わないで生きている人たちには「引きこもり」という立派な名称が与えられているのに、内向きのチャンネルがぶっこわれた人には、用語が定義されていない。そこで、俺が「出しっぱなし」という言葉をこのたび考案してやった。

タレントとかアナウンサーとか政治家とかには「出しっぱなし」が結構いると思う。青島幸男が「知事さんは、あたりまえだけど一日中、365日ずっと知事さんなんです。これが結構キツかった」と言っていた。赤ちょうちんに行ってもSPがついてきて、それでも無理して飲んでやっといい気分になったら、どっかで地震があって呼び出される。そういう日常が耐えがたかったと言うのだ。要するにプライベートな時間が無い生活はつらいということで、これがあたりまえの人間の感覚だ。

10年も20年も部屋から一歩も出ないというのも随分な片寄りだけど、プライベートな時間が一切ないような生活を10年も20年も喜気として続けるのもやはり普通じゃない。商売上の必要からしかたなくそうするなら、これはこれでしょうがない。しかし、一定のポジションと権力を得たら、久米宏大橋巨泉みたいにそれを行使してプライベートな時間を確保しようと思うのが当然。タレントは売れてくるとそういう方向に動く奴が意外に多いが、なぜか女子アナと政治家はそういう必要性を全く感じない人の割合が多いような気がする。こういう片寄った人を「出しっぱなし」と呼ぶことにする。

俺が言いたいのは、「引きこもり」と「出しっぱなし」は均等に論ずるべきだと言うこと。「引きこもり」が異常だと言うならば「出しっぱなし」も異常だと言うべきだ。「引きこもり」を無理に直そうとするなら「出しっぱなし」の治療も強制すべきである。俺のスタンスは、基本的にはどっちも好きでやってるのだからほっとけばいい。ただ、一部は本人が非常にキツい思いをしてそういう生活を続けているのに自分で止めることができなくなってる。そういう人には救いの手がさしのべられるべきだ。全部ではないが「出しっぱなし」の人を見てて、時々かわいそうになることがある。

別に俺の意見に同意しなくてもいいが、両者を理由なく区別するのはやめてほしい。「引きこもり」を問題にするのと同じくらいは「出しっぱなし」の問題を考えるべきだと思う。

と言うと、おそらく「引きこもりは社会に対する寄与がゼロであるのに、出しっぱなしはたとえ背後に病的なものがあったとしても社会に貢献しているから、同等には論じることはできない」という意見が出てくるだろう。

残念でした。ここには奇妙な対称性があるのです。「引きこもり」は寄与もしないが、社会に対して害も与えない。「出しっぱなし」はノーマルな一般人より、大きな仕事をすることがあるのは間違いない。早い話が総理大臣や知事などは「出しっぱなし」でなければつとまらない。青島幸男のように、そうでないノーマルな人が間違ってなってしまうと仕事が停滞して迷惑だ。だが、こういう連中は一旦社会に対して害を与えはじめると、とめどがなくなってしまうんだよね。

引きこもりは常にプラスマイナス0。一般人は、プラス50かマイナス50。出しっぱなしは、プラス1000かマイナス1000。結局、期待値はどれも同じである。

一例をあげれば、諫早湾干拓事業。俺は、人間のためになることなら自然を壊してもかまわないと思う。政治家が私腹をこやすのも基本的にはOKなのだが、あれだけは認められない。あれだけの公金を流用するなら、もっともっときれいに人に迷惑をかけずに私腹をこやすことができるはずだ。あれだけ自然を壊していいなら、もうちょっと乗数効果の高い経済的に有効な手がいくらでもある。つまり、あれを強行しても誰も嬉しくないんだよね。あれは頭が悪いというより、内向きのチャンネルのぶっこわれた人間がやる典型的な行為だ。

ビルゲイツのような「エゴイスト」の害は限界があるから恐くないんだけど、「出しっぱなし」は壊れているだけに、やることにとめどがない。俺は自分のビョーキの面倒で精一杯なんで、他人のビョーキは基本的にはどうでもいいのだが、社会で共有する問題として他人のビョーキに首をつっこまなきゃならんとしたら、「引きこもり」じゃなくて「出しっぱなし」の方が先だと思う。