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地球温暖化で海面の平均水位が1mとか2mくらいでも上昇したら大変なことになるのだが、たとえ10m上がったって日本列島全てが水没するわけではない。同じように、子供にとって学校がどれだけストレスフルな場所になったとしても、そこで楽しく有意義な生活を送る子供は常に一定数存在する。変化の無い所だけを見て、問題がないと言うのはナンセンスだ。それで、いったい学校へ行く子供と行かない子供はどこが違うのか長年考えてきたのだが、突然、答えがひらめいてしまった。

子供が学校へ行かないことを選択することは、親に非常に不快なショックを与える。経験者の一人として言えば、あれは霊光波動拳をのみこむような辛い経験となる。玄海ばあさんは幽助がこれに耐える素質があると思ったから、あの試練を与えたわけだが、子供も自分の親を見て、これが試練に耐えうると思うと、不登校という選択をする。残念ながらそうでない親をかかえた子供は、黙って学校へ行き続ける。つまり、子供でなく親の潜在能力が道を分けるのだ。

不登校が親にとって何故試練になるかと言うと、自分の言葉のリアルさを点検させられることになるからだ。「学校へ行け」とリアルに言うためには、自分自身がリアルさを持たければならない。しかってなだめてお願いして何かエサでつってみたりあきらめたり絶望したり、いろいろやってるうちに、いつのまにかそのポイントに無意識に気がつかされる。何をやってもリアルでないと子供は反応しない。なかなかリアルになれない自分に直面することで、自分の人生の棚卸をさせられてしまう。

それでは子供や学校に起因する要因を何故考慮しないのかと言うと、子供にストレスを与えている原因が、海面の上昇のように日本中に遍在するものだからだ。つまり、学校におけるあらゆる指示がリアルでなくなっていることだ。「朝は8:30に来い」「朝礼の時は並んで立っていろ」「教室で座って先生の言うことを聞け」「宿題をちゃんとやってこい」「寝る前はちゃんと歯をみがけ」俺たち親の世代が聞いたこのような言葉は、その当時はいくぶんかはリアルだった。リアルな言葉に従うのは、それほど辛いことではない。同じ言葉でもリアルでない言葉に従うのは、全く別の経験である。そして、こういった言葉にリアルさを与えていたのは、教師でも親でもなくある種の社会的な合意だ。そのパワーソースが機能しなくなっているのだから、ごく一部の例外をのぞいて、子供に対してリアルな命令を下せる大人がいなくなったのは当然である。だから、ほとんど全ての子供たちがもれなく厳しいストレスにさらされていると見て間違いない。

それで、平均値としてこのような状況が進行しているのは間違いないが、個々の学校やら家庭にはそれぞれ個別の要因があるから、当然子供が受けるストレスにも濃い薄いがある。その濃い薄いや子供自身のストレス耐性によって、学校から逃げるか逃げないか決まるものだと俺は漠然と思っていた。その通りだったらまだよいのだ。臨界点に達した子供はもう既に逃げていることになるのだから。しかし、どうもそうではないのだよね。子供に真剣に接する教師ほど「なぜこの子が?」と疑問を持つらしい。 10万人が不登校したら10万通りの原因があるとか言ったりする。そうではない。たぶん子供の中には要因はないのだ。親のキャパシティが事を決すると仮定すると妙にいろいろなことのつじつまが合ってくるのだ。

そして恐しいことに、この理論から自動的に導かれる結論として、臨界点に達しているのにその状況から逃げ出せないでいる子供が相当数存在することになる。学校へ行かない子供より行ってる子供の方を心配してる場合なのである。