プログラマーのための宗教

俺はプログラマーだからOSはもちろんエディタにもメーラにもこだわる方だが、 *宗教*を選ぶのも簡単にはいかない。まず、当然のことながらプログラミングを禁止している宗教には入れない。これを止められたら家族もろとも路頭に迷うからあたりまえなのだが、さすがに在家信者がまっとうな仕事をするのを止めるラディカルな宗教は少ない。問題はそういうことではなく、コードを書くという作業は俺にとってある種の快楽の追求でもあることだ。

バグの無いコードを徹底的に追求していくと、その構造の中にある種の「美」が生まれてくる。それを感じるセンスがないと単なる職業的プログラマーとしてもなかなか一人前にはなれない。美しいコードを読んだり書いたりすることは、ハッキリ言って楽しいことである。ごぞんじのように、一番楽しいこと(かってVHSを推進し今ネットを推進するパワーの源つまりアレです)を禁じる宗教は多いが、その勢いで「楽しいことはとにかく全部ダメ!」みたくなってる所も多い。俺だって、仕様書と納期があればそれに従うが、コードを書くという行為は根本的には楽しくてやってるのであって、これを止める宗教はやはりイヤだ。

じゃ、快楽の追求を容認すりゃいいのかと言うと、「だいたい、プログラムなんぞは下賎の行為だが、しょせん罪深いおまえのような者は下賎の行為がふさわしい。見逃してやるからほどほどにしとけよ」などと言われるものやはりちょっとイヤ。つまりこれを勘弁してくれさえすればどんな宗教でもいいかと言うと、そうはいかない。なぜかと言うと俺は、よいコードの中にある美・・・実にシンプルなパーツの組合せで驚くほど複雑で多彩な処理を可能にする、あの不思議な感覚は、もしそういう存在があるとしたら、何か神につながるものがあるに違いないと考えている。だから、どうせならコードの美しさと共存できるような世界観のある宗教にしたい。もうちょっと欲を言えば、あの独特の美をちゃんと説明できる体系を持った宗教がいい。

こんなイッチャってること言うからと言って、俺が神様の声を聞いたり光を見たりというアンビリバボー系の経験があるわけではない。そーゆーことは一切ない。心霊写真特集を心待ちにして喜んで見るがその夜はぐっすりと安眠する。うちの奥さんはアレを見ると眠れなくなるからと「信じてないなら見るな」などと(やややつあたり気味の)苦情を言うのだが・・・。

ただ、神様のいない物質だけの世界にきれいなコードが存在するということが論理的な矛盾であるような気がするだけだ。頭の中で原子や分子がガシガシぶつかったりはねたりしているうちに、よいコードができるとはとても思えない。それくらいちゃんとしたコードの存在って奇跡的なんだよ。だから物質以外の別の存在を仮定する世界観の方が、プログラマーとしての職業的な直観に合致するのだ。同じようなことはペンローズという物理学者も言っている。ちゃんと本業で賞をもらった偉いひとだが、「現代の物理学では人間の頭の中で起こることは全部説明できない」と言っている。ただ、彼は「だから今の物理学は不完全だ」と言って物理学のほうをいじってすませようとしてるようだが、俺は天才ではないので、そこまでやる気力はない。妥協して「別の存在」をいろいろ物色している。「別の存在」はそりゃ掃いて捨てるほどいろいろあるが、コードを書くというこの馬鹿げたヘンテコな行為をうまく説明できる奴がなかなかいなかった。

ところが最近そういう要求仕様にかなり近いものを見つけたので、ここで報告しておく。ニール・ウォルシュという人に降ってきたメッセージである。「神との対話1〜3」という本になっている。これが結構イケてるのだ。

一番気にいった考えかたは、「神さまには何でもできるが、ひとつだけできないことがある。そのたったひとつだけどうしてもできないことをさせるために、神さまは人間(生命、物質)を作った」という話だ。その神さまにできないたった一つのこととは「神自身を体験すること」俺たちは神さまの代理として、神を体験するためにここに出張させられている。かなり俺流(落合かお前は?)にねじまげているが、このウォルシュさんの説明は、俺がコードを書いたり読んだりする動機を説明できちゃうんだよね。 (正確を期せば、代理でなくて実は本人なんだが「体験」するためにはこういうふうに身をやつす必要があるという。水戸黄門じゃないけどね。まあ、詳しくは本家を見てちょ)

神様は、ありとあらゆる形でこの世界を隅々まで体験したいそうだ。もしそうであれば、*linux*を書いたりemacsを書いたりする体験もそれに含まれるに違いない。さらに、そういう経験をありとあらゆる方法で味わうために、この世界にはこんなにもたくさんのプログラマーlinuxユーザが必要なのである。