リアリスト

日曜日のテレビで桝添要一が「たいへんお世話になったかかりつけのお医者さんがいて、その息子が後をついで開業したけどこちらはバカ息子でとんでもない薮だったとします。あなたは自分の体が本当に悪い時、義理をたててこの息子にかかりますか?」と言っていた。日本が本当に危い時うかつに二世三世議員に投票していいのか、という問題提起だったが全く同感である。私だって、どんなにいい人でも恩人でも、ちゃんとコードの書けない人には、プログラムの仕事を出せない。

そして、政治の世界ではこの「コードを書く」に相当する絶対必要条件が「リアリストである」ことだと思う。政治家は、人格が高潔である必要はないし頭が悪くてもかまわない、権力欲などは強い方がいいかもしれないワイロだっていくら取ってもかまわないと思っている。どんなにひどいゆがんだ性格でも、そのゆがみが現状認識をゆがめなければいい。とにかく、リアルに現実を認識できることが第一である。こういう問題でもこういう問題でも禁止に実効性があるのか、つまり本当にストップできるのかどうかをまず考えなくては、事態をよりひどくしてしまう。

そういう観点から言うと、石原慎太郎はかなりましな方だと思っていた。「第三国人発言」についても、背景などをあまり理解しないまま、何らかのそういうリアルさが特殊な方向に発現したことなのだろうと漠然と思っていた。

だが、ここを読むと、残念ながらどうもそうではないようだ。「第三国人」というのは、単なる差別語ではなく、敗戦コンプレックスの日本人の怨念がこめられた非常に複雑な背景を持つ言葉である。そういう微妙な言葉をうっかり使って問題になったと言うより、どうも石原慎太郎の中に、敗戦という事実をリアルに受けとめられていない部分があって、古傷がうずくように、そういう言葉が飛びだしてくるというのが正解みたいだ。そして、「日本人」であることを心のささえにしている人間はどうしてもこういう発言に吸いよせられる。アメリカで教会が選挙を動かすのと同じ構図だが、むこうと違って*宗教*の顔を隠しているだけ、こっちの方がずっとたちが悪い。宗教がないことの空白をこういうかたちで埋めようとするから、現状認識がおかしくなるのだ。

余談を言えば、こういう父性的な人間に評価が甘くなってしまうのが、たぶん私のコンプレックスなのである。これにも世代的な背景があるのかもしれない。