「新しいシャツ」を巡って

「一番好きなのはこれとこれとこれ」という言い方には、どうもひっかかってしまう。「一番」という限りは、その対象は一つだけでなければおかしいと思うのだ。「一番」がたくさんあって並べ立てるならば、その中のどれかが本当の一番で、他のものは「一番」じゃないはずだ。プログラムを組む時は、こういうふうに厳密な思考を強いられるのだが、それを日常言語にまであてはめるのは行き過ぎだと思う。そうは思うのだが、こういうのはプログラマの職業病みたいなもので、ちょっとやそっとではどうにもならない。

しかし、そういう私でも「一番好きな曲はこれとこれとこれと・・・」と思わず並べ立ててしまうアーティストが何人かいる。大貫妙子もその一人で、私にとっては「一番好きな」曲が何曲も存在する。彼女のような素晴らしいソングライターの作る世界は、土台比較が不可能であれよりこれがいいということは言えない。比較ができなければソート(順番に並べ替えること)ができない(これは論理的に整合性のある表明だ)どれもが、One and onlyで素晴らしさを表現しようとしても、私の語彙では間に合わない。どれもこれも「一番いい」というのが、最も適切で論理的なのだ。

ところが、そういう数多い「一番好きな」曲の中でも、ひとつだけ選べと言われたら不思議と選べてしまうものがある。私にとっては「新しいシャツ」というのはそういう曲だ。

この曲は、一緒に暮らしてきた恋人と別れることになり、彼が「新しいシャツ」を着て出て行く、その瞬間を切り取って描写した曲だ。歌っている「彼女」はもう愛がさめている。冷静に彼の出て行くのを見ている。しかし、それだけに「愛が壊れる」という時の流れの中にある純粋な悲しさを感じている。短い曲で、場面はそれだけなのだが、本当に深い静かな悲しみに満ちた曲だ。大貫妙子という人は、ソングライターとしてもシンガーとしても非情にオーソドックスなスタイルを持っているが、中でもこの曲はストレートなバラードである。

ところが、この静かな曲にバンドはとんでもない演奏をしている。まず、高橋幸弘がスネアを遠慮無しにガンガンぶったたたく。あげくは、間奏でマーチ風の変なリズムが入ってくる。だいたいこういうのは、細野春臣のアイディアだろう。大村憲司のギターもなんというか、非常にだらしない音程とリズムだが、はずれそうではずれない演奏だ。坂本龍一のピアノだけは、かろうじてリリカルなのだが、機械的でニュアンスに欠けてると言えなくはない。

しかし、この滅茶苦茶とも言える伴奏が不思議とあっている。遠慮無しに適当にやっても歌にフィットするのは、いわば連中の得意技で、単にセンスがいいというだけの話かもしれないが、凄いと思うのは、このサウンドが詩の世界を深めていることだ。ただの「別れがつらい」だけのバラードではこうはいかないかもしれない。この曲で歌われているのは、もっと深い静かな悲しみだ。愛の本質でありながら、人生の本質、命の本質。こういう歌につきあうのに、まじめにおとなしく演奏してもどうにもならない。本当に才能のあるミュージシャンが、やぶれかぶれで適当にやるしかないのだ。

ユーミンも言っていたが、この連中はどうも素直にいうことを聞かないらしい。次から次へととてつもないアイディアを出してくる。彼女の場合は、やはりバラードにバンジョーという陽気な楽器を入れられてしまった。いわれた時は、本気で怒ったのだが、まだ新人なので仕方なく黙っていた。そして、できたものを聞くと不思議とあっていたので驚いたそうだ。我々は、できた曲を聞くだけだから気楽でいいが、そういう連中とつきあっていくのは疲れるだろうなあ、と思う。

ところで、「新しいシャツ」には、ライブの別バージョンがあって、そちらはまっとうにバラードしている。個性ギラギラのバンドでなくて、黒子に徹している。アレンジャーとバンドの誠意を感じる。「自分なんてものは影になってもいいからこの名曲を聞いてください」という感じだ。個性とか趣向とかいうものは全て消している、エゴの全くないアレンジと伴奏だ。しかも、みんな語彙の豊富な熟達したミュージシャンである。おそらく、友達にするならこっちだろう。しかし、「いい人」の「誠意」だけではどうしようもないことが、世の中にはあるものだ。

こういうと、単に「才能と性格は別」という話をしているだけと思うかもしれない。私が言いたいのは、そのことと紙一重隔たった全く別のことだ。何かにまっとうに取り組むとはどういうことか、ということだ。オリジナルバージョンのバンドは、魂の深い所で、何かにまっすぐ向かいあっている。その姿勢を現実世界に投影すると、癖のあるout of placeな演奏になる。その投影された影を見て比べたりマネをしても意味がない。何かにまっとうに真摯に取り組む姿勢、魂の姿勢が一致しているから、彼らの演奏が大貫妙子の歌と溶け合っているのだ。こういうことは、芸術だけのことではなくて、日常生活の中にもあると思う。

10秒で泣けと言われたら、私は文句なく「新しいシャツ」を聞く。あれほどこころにつきささる悲しみはない。しかし、それはギラギラのオリジナルバージョンになるだろう。