21世紀の「公民」教材としての「Googleを支える技術」
日本の中学校の社会科には、地理、歴史に加えて、「公民」という科目があります。
ちょっと検索してみたら、FdTextという教材のサイトに、この中で教える項目の一覧がありました。
三権分立とか民主政治の仕組みとか日本国憲法に加えて、経済とか金融に関する話もあります。要するに「我々の社会はどう回っているのか」についての基礎知識だと思います。論壇系のブログをやるなら必須の知識という感じです。
私は、ここにグーグルに代表されるネットのアーキテクチャを含めるべきではないかと思います。つまり、この社会がどう成り立っているかについて考えるなら、それが必須になってくるではないかと。
ちょうどこんなエントリがありました。
2007年秋のあたりはいろんな人の「ニコニコ動画論」を読んで回るのが楽しかったのだが、最近はなんか違ってきているような感覚がある。大上段でばっさり系の記事ほど気持ち悪いズレを感じていたのだけれども、なんとなくわかってきた。
自分が見ている(知っている)動画のジャンルのみで「ニコニコ動画」という全体を語ろうとしているからじゃないだろうか。
「ニコニコ動画=権利動画の無断転載」とか「ニコニコ動画=アニメネタMAD」とか「ニコニコ動画=素人のつまらない動画でくねくねするコミュニティ」とか。なんか、特定のジャンルだけを取り上げてそれで概論を語ろうとしてはいまいか。その手法は褒めるならともかくけなすには向かないと思う。なんつーか、ニコニコ動画も人が増えました。増えすぎました。
あまりにも人が増えて、2ちゃんねると同じ状態になっていると思う。つまり、ありとあらゆるタイプの人間が自分の興味があるところに通っている状態。プロもいれば、専門家もいる、アーチストもいればクリエイターもいる。映画やアニメだけじゃない、「料理」タグにもその道のプロが潜んでいるかもしれない。だからこそ面白い。
それを、ステロタイプで決めつけてざっくり批判すると、こっそり楽しんでいるどっかのだれかを攻撃することになるかもしれない。芋洗いに石をなげるようなもので。
「2007年秋のあたり」には、ニコニコ動画全体について「論」が成立したけど、今はそうではない。本人はニコニコ動画全体を論じているつもりでも、それがニコニコ動画の中の特定のコミュニティのみについてのローカルな議論になってしまいがちであるという話。
インターネットは、はるか昔にここで述べられている変化を通り抜けたのだと思います。つまり、インターネットというものが、先鋭的な技術者や研究者の特定のコミュニティであった時代から、無数のコミュニティを包含した大きな「アーキテクチャ」そのものになってしまうという変化です。
「コミュニティ」であるうちは人間が論じることができる対象なのですが、多種多様な人が集まりある規模を超えて広がっていくと、それは「コミュニティ」として認識できる範囲ではなくなってしまいます。「コミュニティ」を支える「アーキテクチャ」になるわけです。
「アーキテクチャ」になるということは、人々の意識から消えるということです。
水道やコンセントが好きな人やその反対がいないのと同じで、私たちは、自分たちの世界全体を支える「単一のアーキテクチャ層」を好きになったり嫌いになったりすることが難しいのです。
しかし、実は、その「アーキテクチャ」こそが、無数の島宇宙に分裂した我々の社会全体を支えているものです。
我々の世界は、バラバラになっていてもはや人格的にはつながれない。従来の地道な犯罪操作とヤフーのディレクトリ型検索サービスが破綻したのは、同じ現象の二つの側面です。階層的に人間の行動を把握しようとすることが非常に困難になっているのだと思います。
被害者と犯人は生活空間を共有してないし、検索する人とホームページを作る人も同じカテゴリーを共有してません。両者を結びつけるものは「アーキテクチャ層」にしか存在しないわけです。だから、Nシステムが無ければ犯人を追えないし、ページランクがなければ必要なページが見つからないのです。
そして、その「アーキテクチャ」の中にあるわずかな違いで、特定の意見がピックアップされたり逆に無視されたりということが起こります。
だから、「公民」が社会の成り立ちに関しての基礎知識であるなら、その「アーキテクチャ」についての基礎知識は一番重要なことになるのではないでしょうか。
むしろ、従来の「公民」の応用としての「論壇」は、単なるローカルなコミュニティの一つになってしまっています。コミュニティ外の人には興味の無い特定の話題について、コミュニティ外の人には理解できない特定の用語で論じる、趣味のコミュニティとしてはよくあるタイプのコミュニティの一つ。
「アーキテクチャ」としてのネットについての知識が新しい「公民」教科書になるべきです。その「公民」教科書に書かれている基礎知識が、新しい「論壇」の書き手と読み手が共有する基本的な前提になるべきです。「アーキテクチャ」としてのネットを監視し、それについて議論する人たち、そういう新しい「論壇」が必要だと私は思います。
そういう意味でのネットのアーキテクチャは、どこまで詳細なものであるべきでしょうか。
例えば、核兵器は相対性理論や量子力学という最先端の物理学で作られていて、その原理を理解することは容易ではありませんが、その政治的、社会的な意味あいを把握することは容易です。それは基本的には強力な兵器であって、破壊力がこれまでと桁違いに強いことと、人体や環境に対する影響が長期的に残存することを意識していれば、それをどう管理すべきかについての議論が可能です。
クローン技術についても、それを可能とする技術やメカニズムは、専門外の人にとって大きな謎ですが、その技術が何を産むかということについては、「一卵性双生児を後から作ること」というレベルの理解で考えても、本質的な間違いにつながることはありません。
つまり、大半の技術においては、How(それがどのような仕組みで実現されるか)ということと、What(それが何であるか、どのような作用を産むか)を分けることが可能です。従って、専門外の人でも、Whatの側面に焦点をあてて、倫理的、法的、政治的にどのような対応が求められるかについて、考えたり意見を言うことが可能です。
それに対して、インターネットの中にある公共的サービスというのは、HowとWhatが密接に関係しています。
ここで言っている「How」に関して、こんな良書が最近出版されました。
Googleを支える技術 ?巨大システムの内側の世界 (WEB+DB PRESSプラスシリーズ)
この本は「情報系の大学3年生程度の予備知識で読み進められることを目指して」書かれたそうです。
「公民」として義務教育に含めるには難しすぎるかもしれませんが、「我々の社会がどう回っているか」を理解するには、こういう知識が必要なのではないかと思います。最低、これくらいの「How」が無いと、「What」としてネットやグーグルをとらえるのは危険だという気がします。
特に、現行のフロントエンド、ユーザインターフェースを「What」として理解するのは本質的ではありません。その部分は誰でも真似できるし、要求次第でいかようにでも変えられることです。グーグルのようなアーキテクチャ層を担う組織について考えるならば、少なくともAPI、できればバックエンドの基盤技術を想定して考えるべきだと私は思います。
暴力を国家に独占させるのと同じくらい、クラウドコンピューティングという基盤技術を特定の組織に預けることは重要な問題だと私は考えます。
グーグルは、世界中で最も情報共有が進んでいる会社であり、従業員は失業の心配なく会社の利益より自分にとっての正しさを追求できる人たちです。だから、クラウドコンピューティングをグーグルに預けることは、現時点では合理的な選択だと思うのですが、だからと言って無関心でいい問題ではないと思うのです。