「堀」「掘」誤報の件検証

永田議員はハメられた!という記事に間違った事実を含んだ内容を書いてしまったので、それについて検証の記事を書いてみます。

と言っても、結論を先に言えば、今回の件は「結果には問題があったがプロセスには問題がない」ということで、基本的には自分のブログの書き方というかスタンスを修正する必要は感じていません。

まず、間違いの内容をまとめると、民主党の公開したメールについて、2ちゃんねるにあった「鑑定」をそのまま肯定的に引用した上で、「これは偽造確定」と書いたことです。その後の動き(永田議員がメール問題で引責辞職の意向を示したこと等から、「偽造」であることは間違ってなかったと思いますが、その根拠が間違っていました。

その「鑑定」の根拠は、以下の通りです。

  1. 「堀」の字の「へん」の部分が消されているが、これは「堀」でなく「掘」である
  2. X-Senderのeとrが全角になっている
  3. Eudoraで、To:> From: の順になるのは、Mac版だが文面フォントはwinのMSPゴシック。

私は、1を主たる根拠として記事を書きましたが、これはその後、自民党の平沢議員によって公開された文書(同一文書のコピーで一部の黒塗りがされてないもの)によって、間違いだとわかりました。(これが永田議員が入手したものと同一の出所であるという証明はされていませんが、これについての疑念はマスコミでもネットでも見かけませんので、そう判断します)。

2と3についても、おそらく間違いであるか、これだけでは根拠にはならないものですが、ここでは断定を避けておきます。(本題とは違うし時間がないので)

それで、これは「根拠は間違っていたが結論があっていた」という誤報なので、問題が複雑にからみあっていて、なかなか自己検証するのが難しいです。単純に「全部私が悪かったすみません」と言えない部分があるからです。そこで、自問自答したことをそのまま書いてみます。

根拠が間違っていたのに結論が合っていたことは偶然か?

これはNOです。問題の記事にも書いたように、私は自分で考えた「Subject:」の件や2ちゃんねるで見た「会計的な観点からの疑問」等多角的に検証して、「このメールは偽造の可能性がかなり高い」と判断しました。ただ、それが90%→100%になったのは、フォントによる検証を見てそれを信じた結果です。だから、偽造でないものを偽造と書いたりその逆のような、最悪の誤報が避けられたことは偶然ではありません。

結論が合っていれば、根拠が間違っていたことは、大きな問題でないか?

これもNOです。事実でないことを事実のように書くことは問題だと思います。今回の疑惑メール自体が大問題ですから、それに関する誤報は問題が大きいと思います。

誤報確認後の処置は何をしたか、それは充分なものであったか?

平沢議員の入手したメールが公開されて後、最初に空いた時間に訂正の記事の記事を書き、元記事に追記でこの記事へのリンクを入れました。その後、まとまった時間を確保できた所で、この記事を書きはじめました。訂正と検証をしっかり行えば問題ないと思います。

検証内容を自分で確認をしたのか、するべきであったのか?

訂正記事に書いたように、2ちゃんねるにリンクされた検証の画像を見ただけで、これが正しいと判断して、そのことをそのまま書きました。自分自身では検証していません。

しかし、検証しないで記事を書いたことは、間違ってなかったと考えています。ブログは個人の責任で個人の思ったことを書くものであり、全てを自力で検証することはできません。速報性と確実性のバランスの取り方はさまざまであり、言及した情報をそのまま流すか何か(再検証や感想や関連情報等)を加えて書くかの選択は自由だと、私は考えています。

また、私が、(自分流の検証と選択基準で)2ちゃんねるの情報を鵜呑みにするのは、内面的、思想的に必然性のあることで、そのスタイルを変えるつもりはありません。

それでは記事の書き方に問題はなかったか?

これは微妙な点ですが、自分のスタンスや検証過程(検証しないで信じたこと)をもう少し明確に書くべきであったと考えています。

つまり、「2ちゃんねる盲信派」という自分のスタイルについて、継続的にここを読んでいる方に対しては充分に開示していると私は考えます。たとえば、「essaさんは2ちゃんねる大好きだしなあ」というid:kanoseさんのブクマコメントがあります。

ですから、自分のスタンスが明示された状態で、自分の意見を発信する以上は、あとはそれを読む人がどう評価するかという問題だと私は考えます。

ただ、問題の記事を初めて読む人にとっては、「どういう人間が何を根拠にそう考えたのか」というプロセスが明解ではないではないので、その点の配慮が足りなかったと考えています。

もし、やり直すとしたらどう書くか?

民主党が公開した堀江メールは、2ちゃんねらの調査力によって一日で偽造確定です。」の直後に、次の文を入れます。

「印刷フォントの検証結果から、これが偽造であるというカキコが2ちゃんねるにありました。私はフォント関連の知識はありませんが、後述する傍証と合わせて、この検証から、問題のメールは偽造であると確定したと考えています。」

これならば、初めて読む人にも「2ちゃんねるを未検証で受け入れる人間が書いている」ということはわかると思います。こう書いていたなら、誤報と判明した時に、追記で簡単に訂正するだけで終わりにしていたと思います。逆に言えば、この文が抜けていたために、自己検証の記事を書く必要があると考えました。

他のブロガーにも同じことを求めるのか

「自分が書いたことに重大な間違いがあったと自分で気がついた時には、なるべく早く明解に訂正する」ということは、mustに近いbetterとして、他のブロガーにも求めます。ただし、その判断は自分の基準であるべきで、他人が間違いだと判断しても自分は正しいと信じるならば、訂正する必要はないと思います。

「自分の判断基準やプロセスを明示する」「間違いがあった時に検証する」ということは、betterの項目として、その人が自由になる時間の範囲で求めます。特に前者の点をわかりやすく明示するのは、なかなか大変なことですから、努力目標と考えます。

公開の場で発言する者は誤報を出さないように最大限努力すべきではないか?

私はそう考えません。

誤報を出さないように最大限努力」することには、トレードオフがあります。それを目指すことで、速報性や多様性が失われると思うので、その得失で慎重に判断すべきことだと思います。

個人がこの点について自分なりの判断を行なえば、自然と多様性が生まれ、全体として正しいバランスを保つと私は考えます。

そのような態度の人が増えると、意図的な扇動に躍らされることはないのか?

ちょうど、HSKIさんから、そういう問いかけがありました。

そのような集団知の力を利用したいと思う者は多いと思います。よい意図もあれば悪い意図もあるでしょう。中には巧妙に意図を隠す者も。それどころか、集団知を構成する個々の中にもそうした者がいるはずです。

さて、そんな中で、集団知は自らの目的を正しく選びとることができるのでしょうか。

たとえば、問題のメールが本物であったのに、今回のような間違いによって扇動されて、偽造であると思う人が増えてしまうようなことはないのか?そういうことを防ぐ為には、「最大限の検証」が必要ではないか?ということです。

私の考えは、「意図的な扇動は一時的には可能であるが、扇動した者が次にネタになる。そのことが抑止力になる」ということです。つまり、本物のメールや真偽が簡単に判定できないようなメールに対して、今回のようないいかげんな検証が意図的に流されたらどうなるでしょうか。おそらく、「このようないいかげんな検証を流す人間は誰なのか?」という疑問が2ちゃんねるの中で起こると思います。そうなったら、多様な観点を持つ2ちゃんねるの検証能力が、その偽情報の発信元に向けられます。

2ちゃんねるにおける「工作員」に対する反応には、下に引用した文章に書いたように大きな意味と必然性があると私は考えています。

2ちゃんねるでは、旗幟鮮明な意見は、妄想的に「工作員」呼ばわりされることが多い。「公的領域」としての2ちゃんねるが、私的な利害に基づく発言で汚染されることを恐れているのではないか。どうして、外の世界ではむしろ信頼される条件である、立場、所属の明確な意見が、「工作員」として嫌われるのか。そこから逆算すると、多くの人が、ここを「公的領域」として意識していることがわかる。

偽情報の発信者が個人であっても団体であっても、2ちゃんねらはそれが誰なのか、あらゆる手がかりを利用して、突き止めようとするでしょう。そういう流れになると、扇動者は身元を隠しながら慎重に扇動することを迫られるので、継続的に有効な扇動を行うことは難しいと思います。

また、そのような情報戦になった時に、間違った思いこみ検証と正しくで鋭い検証が両方あることは重要です。正しい検証、論理的な検証は逆に言えば予測可能ですから、扇動者が事前に準備していれば対応することが可能です。しかし、間違った思いこみの意見は予測できないので、扇動者は瞬間的な対応が必要で、うっかり正体につながる情報を開示してしまう可能性が広がります。

頭のいいやつの相手は疲れる。頭のいいやつはツッコミ所を知っていてピッタリそこにツッコミを入れてくるからだ。でもじっくり考えれば、こちらにもツッコミ所はわかるから、だいたい何をやるか予想がつく。

バカの相手も疲れる。バカはツッコミ所を知らないから、どこにツッコミを入れてくるのか予想できないからだ。でも、バカをあしらうだけの賢さなら、努力または外部調達でこれもだいたいなんとかなる。

どっちか片方ならなんとかなるが、これが両方一度に攻めてくるとたいへんだ。どこに突っこんでくるかわからん上に、簡単にあしらうわけにもいかない。だが、幸いなことに、バカと頭のいいやつを両方揃えた組織というのはありそうで意外とないのだ。頭がいい奴が偉くなるとバカは逃げ出すし、バカが偉くなると頭のいいやつは逃げ出すからだ。

つまり、集団知には、フォーカスの集る所においては外部からの撹乱要因を排除する自然発生的な傾向と能力が備わっていて、2ちゃんねるはそのひとつの理想的な形態であると私は考えています。

まとめ

「自分のスタンスを明示できていたか?」という点では、若干の反省点がありますが、それ以外には、プロセスとしては問題が無かったというのが、今回の件についての私の結論です。

ですから、少なくとも2ちゃんねるに言及する記事においては、今後も、同様の誤報を繰り返す可能性は高いと考え、ここはそのようなブログであるとして受け取って下さい。また、できれば、そういうエントリーにリンクされる場合は、そのスタンスについて周知徹底をお願いします。

もちろん、そのスタンスには弊害がありますが、それを上回る利点があると私は考えています。