体罰とサイコセラピーと教育
いいでしょう。どうしても不可避な必要悪だというのなら、体罰のプロを育成すべきです。素人が各自の勝手な判断で適当に体罰を行うから危ないんです。体系的研究の下、リスクと効果を判断できて、技術を持ち、公の管理下に置かれる。そういった体罰の資格を作ればよろしい。本当に生徒のためだと言うならね。
これは、皮肉なのかもしれないけど、ある意味まっとうで重要な提言だと思う。
あまりまとまらなかったが、ここから、いくつかの関連する問題について考えてみた。
まず、(再掲になるが)臨床心理職の国家資格のための緊急ブログ: こころへの侵襲性をめぐって
医師には「医としての侵襲性(影響力)」に気をつけながら(時には利用しながら)、そして「医としての侵襲性」をコントロールするために「医の名のもとのサイコセラピー」を行うことが求められる。一方、心理士は、「医としての侵襲性」とは異なる、侵襲され傷ついた人が持つ「侵襲されやすさ」に充分配慮しながら、「侵襲からの自己回復」を支援する「心理の名のもとのサイコセラピー」が求められていると思います。
医学も臨床心理学も、対象者を傷つける可能性(侵襲性)と効き目は切り離せない関係にある。もし、体罰に効用があるとしたら、全く同じ話になるだろう。
医学も臨床心理学も、「体系的研究」があってそれを体系的に教育するシステムが機能している。その教育は、特定の能力を身につけることと同等に、自己の果たせる可能性を限定することに力を入れている。つまり、自分がその知識、技能を身につけて何ができるか、だけでなく、それによってできないことが何なのか、それを理解することが重要なのだ。
そして、どちらも倫理要項が付属していて、「私はそれをある領域以外では使いません」と約束することで、プロとして活動することを認めるような構造になっている。
体罰にはそれが欠けていることは言うまでもないが、それは体罰のみの問題ではなくて、教育そのものが、現在、そういう問題に直面しているのではないだろうか。
それが、たゆたえど沈まず: 自由主義の弱点としての子供につながるような気がする。
では義務教育ではどうするんだということになると、これがまた難しい。公立学校が義務教育において地位を低下させているのは、「おかしな生徒」を排除することが制度的に許されていない、少なくとも最大限その「おかしさ」を許容しなければならないからであり、私立がそのプレゼンスを増しているのは、「おかしな生徒を退学させることが出来る」という一点において勝っているからである。
高校レベル以上では私はパターナリズムを排除したリーガルな対応の徹底でよかろうと考えるが、初等教育ではそこのところの猶予が必要である。とは言え、パターナリズム100%では立ち行かなくなるのも目に見えているので、問題はそのバランス、極端に秩序に対して撹乱的である子供については排除ではなく、矯正という形での何らかの隔離が必要ではあるだろうと考える。
思うに、教育者としては初等教育、中等教育こそ複雑な鍛錬とプロフェッショナリズムが要求されるのであり、それに比べれば大学での教育などは誰でも出来るというと語弊があるけれど、学問の話に特化してもそれが通用するという意味において、まだしもかなり楽ではあるだろうと思う。
このエントリーは、教育、特に、生徒を排除できない公教育について、上にあげた問題を指摘しているように読めた。
「初等教育、中等教育こそ複雑な鍛錬とプロフェッショナリズムが要求される」ということに全く同感だが、それは、「自分の役割をいかに限定するか」という問題に関わる知識と倫理性ではないかと私は思う。
一般化すれば、「人間を相手に専門的な知識で対応するプロフェッショナルは、専門性の根本に自らの活動領域の境界線に関する深い理解が必要となる」ということだ。そして、すでに国家資格となっている教員と医師と比較して、この問題に最も誠実に対応しようとしている臨床心理士が、国家資格化に難航していていることも皮肉だ。
そして、これは専門家の側の問題だけではなく、一般の人が専門家に期待する全能性、無謬性が根っこにあるように私には感じられる。「おまかせ」で専門家に自分(や自分の子供)をコントロールしてもらうか、自分が主体的に専門家のサポートを借りるかというメンタルモデルの違いである。