あえてひと手間減らすプロのセンスと勇気

「第一回 めざせ専業主夫 『決定版 ケンタロウ絶品!おかず』の巻」の中に、料理研究家ケンタロウの本が、ユーザのプロセスに意識的であることを評価している所がある。


ケンタロウの本は、そのへんの機微をとてもよく心得ていて、こちらの気持ちが萎えてしまう前に料理が完成するように、手順はスリム化されている。もちろんケンタロウはプロだから、ここでもう一手間かければ味が良くなる、ここでちょっと時間を置けば味が染みる、というポイントはきっとたくさんあるんだろう。しかしプロセスを増やすことによって、(読者のなかから)実際に作ってみるひとの数がぐぐっと減ってしまうということも、また分かっているのだ。エライ。

ここで重要なことは、まず、料理研究家と料理本のユーザの目的意識のズレに敏感であること。

料理の手間とおいしさとのトレードオフにおいて、料理研究家は過剰においしさ重視の価値観を持ってしまいがちである。それは悪いことではないが、料理本のユーザの要求とはズレてしまう。ユーザは、特に日常的な毎日の料理では、手間をかけないことをおいしさと同等に重視する。

料理研究家が、ユーザに迎合しておいささという価値観を捨てる必要はないが、このズレに意識的であることは重要なことである。

次に重要なことは、プロセスを減らすという決断をすること。

ズレに意識的であれば、それは論理的な帰結ではあるのだけど、プロにとって、プロセスを減らすという決断をするのは、感情的に受けいれ難い面がある。そこを乗り越えるには、単なる知性以上のものが必要だ。

私も実は、ケンタロウ親子(母も料理研究科の小林カツ代)の料理本を愛用しているが、この人たちのレシピは、ダシを取らずに作る料理が多い。ダシに頼らず、素材の味と味付けだけで、それなりのおいしさを素人に作らせてしまう。素人には見えない所で、多くのプロセスが吟味されてフィルタリングされているのだと思う。

これと似た問題に触れているのが、Rogue Engineer's Diary / やさぐれ日記(2005-09-17)で翻訳、紹介されている、Bill Atkinson(アップル創世記の伝説的プログラマー)の話。


それから数日後、MacPaintから文字認識機能を外すことにしたとBillが言ったとき、僕は耳を疑った。彼が言うに、もしこれを 残しておくと、人々はこの機能をたくさん使うことになるだろう、そうなればMacPaintは優れたドローイングプログラムではなく、出来の悪いワードプ ロセッサとしてとらえられてしまうのではないか、ということを恐れたのだという。今思うと、これはおそらく正しい判断だったのだろうが、当時の僕はそうは 思わなかった。僕は、多大な努力の下に実装したはずの機能を捨てるという、自身の執着から自らを切り離す彼の姿に驚きを覚えた。多分僕だったらそんなことは出来な かっただろう。

「文字認識機能」は当時のコンピュータ全般の技術水準では画期的な機能であり、この直前にはその為に開発された技法が簡単に解説してあるが、そのテクニックは驚くべきもので、もしこれが最終的に実装されていたら、プログラマーにとっては「達人の技」の象徴として、一種のあこがれとともに語りつがれるものになっていたかもしれない。

しかし、超絶テクニックで既に完成していたその機能を、ビル・アトキンソンは、はずす決断をした。

ここにも、「ユーザ体験の重視」と「プロセスを減らす決断(をできる勇気)」という、ケンタロウと同じ本物のプロ意識が見られる。

実装されていた「文字認識機能」は、不完全であっても無駄な機能ではない。この機能の仕組みを理解できるプロのプログラマーであれば、その限界を理解し、正しい場面で正しく活用できる。非常に有用な機能である。

しかし、大半のユーザにとっては、この機能は仕組みが理解できず、その為にその限界が理解できない。画面の中に認識できる文字と認識できない文字が混在していることは、ユーザに混乱をもたらす。使える場面では便利である分だけ、限界を知らずに使ってしまった時の混乱は大きいものになるだろう。

そこまでは、この件の証言者であるAndy Hertzfeld氏も、説明を受ければ理解できる所だ。

しかし、それを実現する為の、「プロセスを減らす」という決断は、当時の彼のキャパシティの外にある。それを見た時のショックと混乱が、上記の引用部分によくあらわれている。同時に、「当時の僕はそうは思わなかった」という表現には、微妙なプライドも見える。ビル・アトキンソンのセンスと勇気をは継承し、きちんと次の世代に伝えているのだろう。