「月経血コントロール」から男が学べること

オニババ化する女たちという本はフェミの内ゲバとしか思ってなかったけど、読んでみたらぜんぜんそんなことはなかった。


今の九十五歳以上の方たちが二十代から三十代だったころ、といえば、もう七十年以上も前のことです。ほとんど完全にきものの生活であった当時、女性はいわゆるパンツは着けておらず、品質のいい生理用品があったわけでもないので、月経中は、ある程度自分で膣口を締めて月経血を止めることができたというのです。(p51)

そして、この技法なるものは、体をコントロールするというより、そこに意識を向ける「気づき」の技法だったようだ。またこれは、単体で完結した身体技法であるわけではなく、月経、SEX、出産、閉経といった女性の人生全体を豊かに生きる為の知恵の体系の一部であり、それが世代間で受けつがれてきたそうだ。

この伝統は失なわれているが、世代間で何も受けつがれてないかというとそんなことはなくて、今は逆に「お産は人生最大の苦しみ」「月経は憂鬱で面倒くさいもの」という、マイナスのイメージが継承されている。

これを、「世代間で継承するマイナスの身体意識」と一般化して、男性として似たものを探すと、「仕事」「お金」に対する意識に似た問題があるような気がする。

毎朝、仕事の場に向かう父親の姿、消耗してそこから帰ってくる父親の機嫌などは、身体的な記憶として覚えている。たまに早く帰ってきても、機嫌が悪くて近寄り難い父親。何度かやつ当たりされて、子供は、頭でなく体でそれを記憶する。その記憶が「仕事」「お金」の原初的なイメージを形成している。

「仕事とは辛くて大変なことだ」「お金は身を削るような大変な思いをして稼ぐものだ」

もちろん、言葉が使えるようになって、それがそのまま自分の考え方や信念になるわけではない。しかし、その最初のイメージをそっくり裏返すことはできても、そこから完全に自由になることは難しい。

「仕事とは辛くて大変なことであるとは限らない」「お金は身を削るような大変な思いをしなくても稼げるはずだ」

頭でできることは NOT をつけ加えることだけで、体の記憶を消去することは難しい。

あるいは、「掃除」にまつわる世界観。

掃除をするのは、世界は物質でできていてエントロピーが一方的に増大するからだ。物質だけで構成された世界で秩序を保つためには、掃除という苦役が必要である。僕の体は掃除をそのような苦役として理解している。

僕の頭は「掃除」を別の形でとらえることができることを知っている。流動する世界に存在する感謝の表現として、また、意識を持ってそこに存在する者の義務として、世界が自分自身を再構成するプロセスの一部となり、身の回りのものを片づけて清める。そういう世界観がありえることを僕は知っているし、それが真実に近いと推測もしているが、僕の身体意識は掃除を苦役としかとらえられない。

例えば、回りの大人が敬意を持って仏壇を扱っていたら、散歩の途中でお地蔵さんをちょっとおがむことが自然にできていたら、世界には人間と物質以外に、敬意をはらうべきものがあると体で教えてくれたら、掃除に対するイメージは全く違うものになっていたと思う。

僕は学校で教わったことやネットや本だけで構成されているわけではない。世代間で継承された身体意識の上にそういうものを散りばめて僕ができている。親の世代より随分たくさんのことを知ったけど、継承した身体意識はほとんどそのまま残っていて、おそらく、僕の子供たちにも、それが受けつがれていく。

僕にとって制約でしかないそんな身体意識は継承してほしくないけど、そう思うことで、僕の貧弱な身体意識はさらに歪められて次の世代へ継承されてしまうだろう。

よしもとばななの「幽霊の家」について次のように書いたことがある。


こちらは大人の物語で「耳すま」にはないものが三つある。金とSEXとオカルトだ。この三つがリアルにきちんと書かれていて、それでも「耳すま」のようにさわやかだ。金とSEXとオカルトをリアルに書いてもドロドロにならず、むしろドロドロの方が空想的であると思わせるほどのリアリティと重さを持っている。


「金」は社会と自分のつながり、「SEX」は身体と自分のつながり、「オカルト」は世界と自分とのつながり。この三つのつながりが、どれも突出することなくバランスよく存在している。

金とSEXとオカルトは、どれも継承された身体意識がダイレクトに現れる領域だ。

回りの大人が、金とSEXとオカルトについてどのように感じているか、それを子供は直感的に感じて、自分の体の中に記憶する。

そのことに無意識でいることはよくないと僕は思う。自分の貧弱な身体意識に向きあって、わずかでもリファインしておくべきだ。ひどいものを受けとって一代でベストアンドブライテストにすることはできないけど、意識することでわずかでも磨くことはできる。

三砂氏の本には、カーリル・ギブランの詩が引用されている(P216)。


子供はあなたの子供ではない。あなたの弓によって、生きた矢として放たれる。弓をひくあなたの手にこそ、喜びあれ

出産の喜びは男には経験できないけど、この喜びなら経験できるかもしれない。